交渉と戦略[3]
ファラミアは目立つように篝火の側を駆け抜けた。すぐさま怒号が追いかけてくる。ビュッと風を切る音とともに、矢が次から次へと地面に突き刺さった。ファラミアは建物の陰に飛び込んだ。すぐ後ろで乾いた音がして、壁に矢が当たったのがわかった。ひとまず我が身に当たらなかったことにホッと息を吐く。
しかし、いつまでも隠れてはいられない。自分は囮なのだ。まだ倉庫から火の手は上がっていない。部下たちが火をかけるまで、敵の目を引きつけておかなくてはならない。息を整え、いざ飛び出そうとしたところ、暗がりから声がかかった。
「ファラミア」
自分と同じく矢を避けてきたのか、エレスサールが立っていた。
「なぜ来た」
「部下を見殺しにはできませんが、主も見殺しにできません」
「わたしは死ぬつもりはないぞ」
エレスサールがムッとした声で答える。そんなことは当たり前だ。死ぬつもりでいる者など、自殺志願者ぐらいだろう。
「つもりはなくても、殺されれば死にます」
「まあ、そうだが……」
エレスサールは渋い声を出した。暗闇に消えた言葉の代わりのように、低く唸る声が微かに聞こえてくる。だが、それもすぐ止み、彼はフウッと息を吐き出した。
「……今は議論している場合ではないな」
こちらに歩み寄ると、建物の端からそっと様子を窺い、何かを決意した声で「ファラミア」と呼んだ。
「ここから矢を射ることはできるか?」
「はい」
「では、あなたは見張りと射手を始末してくれ」
「はい」
ファラミアは矢筒から矢を抜いた。
「この辺りをあらかた片づけたら、倉庫の支援へまわってくれ」
そう言うと、エレスサールは剣を抜いた。
「陛下はどうなさるのです?」
「決まっている」
言い終わらないうちに、エレスサールは飛び出していった。
——まったく……。
これでは自分が追いかけてきた意味がないではないか。どうして、こうも心配させることばかりするのか。走り去る背中を不安な思いで見つめながら、ファラミアは矢をつがえた。
エレスサールの狙いどおり、彼を追って矢が地面に突き刺さる。当たれば元も子もないが、それで射手の位置が知れるのだ。
——いた。
ファラミアは静かに矢から手を放した。視界の中で矢をつがえていたはずの人間が、首から矢羽根を生やし声もなく倒れた。実にあっけない。戦いが起こらなければ姿を見ることもなかった相手だ。ただ属する国が敵同士になっただけで殺し合っている。愚かしいことだ。
だが、それが国を守るということなのだろう。領土を守り、民を守り、そして——、
主君を守る。
ファラミアは新たな射手に狙いを定め、弓を引き絞った。
ヒュッ……。
弓弦が鳴る度、一人、また一人、射手が倒れていった。けれど、敵の砦でそんな一方的な攻撃がいつまで続くわけがない。こちらに矢が飛んでくるようになるまで、あっという間だった。おまけに剣を抜いて駆けてくる者までいる。ファラミアは場所を移ることにした。建物をまわり込み、エレスサールが走っていった方向へ急ぐ。
キィン……。
幾らも行かないうちに剣のぶつかり合う音が聞こえてきた。三、四人を相手に剣を振るうエレスサールの姿が篝火に浮かび上がった。敵兵の一人が倒れる。だが、次に斬り結んだ相手から体当たりを食らい、エレスサールが転がった。ファラミアは慌てて矢をつがえた。
ヒュンッ。
エレスサールに斬りかかろうとしていた敵兵は呻き声を上げて倒れた。それを見て、周囲の敵兵がファラミアを振り返った。エレスサールを仕留めようと出てきた兵士の一人が、こちらへ駆けてくる。ファラミアは弓を背に担ぎ、剣を抜いた。
ガ、キィン!
受けた剣を右に払いのけ、左へ返す勢いのまま斜め上へ薙ぎ払った。
「う……ぎゃああああ!」
敵兵が腕を押さえてうずくまる。その脇をファラミアは駆け抜けた。
「陛下」
「——ファラミア」
新たに二人を地面に這いつくばらせたエレスサールが振り返った。
「首尾は?」
「あちら側の射手は半分ほど片づけました」
「そうか」
頷いたエレスサールがちらっと倉庫方面の空を一瞥した。まだ火の手は上がっていない。
「もうひと踏ん張りだな」
「ええ」
ファラミアは頷き、斬りかかってきた敵の刃を受け止めた。押し返しざま、剣を振り下ろす。相手は白目を剥いて崩れ落ちた。一息つく間もなく、新手が突っ込んでくる。最初の一撃を躱し、胴狙いで斬り上げた——が、相手は飛び退った。それを追って踏み込んだ途端、脇から槍が突っ込んできた。
「くっ……」
ファラミアは間一髪、穂先に屠られるのを免れた。槍と剣では間合いが違う。屋内ならともかく、開けた場では間合いの大きい槍が圧倒的に有利だ。ファラミアはじりじりと後退した。
だが、間合いを計っているうちに第二撃がきた。それをぎりぎりで躱し、ファラミアはとっさに相手の懐へ飛び込んだ。次の攻撃が繰り出されるまでの僅かな間だった。
敵共々地面に転がる。すぐさま起き上がり槍を奪おうとした。しかし、相手のほうが早かった。敏捷な動きで起き上がるや、隙なく槍を構え、穂先をぴたりとファラミアに合わせてきた。ファラミアは覚悟を決めて剣を構えた。
——おそらく次は躱せない。
懐へ飛び込む手も、二度は使えない。あれで仕留められなかった自分は勝機を逃がしたのだ。諦めるつもりはないが、相打ち覚悟で斬り込んでも互角にすらならないだろう。ひとつ勝機があるとすれば、倉庫から火の手が上がることだが……。
——まだか。
敵と睨み合う中、ファラミアは一瞬だけ視線を逸らした。それを隙と取ったのだろう。相手が攻撃に転じる気配があった。しかし——、
「ぐぁっ!」
苦鳴を上げて膝をついたのは、ファラミアではなかった。槍を取り落とし、倒れた敵の首に深々と短剣が刺さっていた。優美な曲線を描くエルフの剣。
「大丈夫か」
駆けてきたエレスサールが、倒れた男から短剣を引き抜いた。
「はい。助かりました」
「礼には及ばんさ」
エレスサールが用心深くまわりを見ながら剣を構える。
「ここであなたに斃れられたら、わたし一人で突破しなければならなくなる」
単身で多勢を相手にするのは慣れているだろうに、そんなことを言う。いや、軽口が出るあたり、この情況でも彼は余裕なのだ。まったく桁外れな主である。ファラミアも負けじと、わざと笑みをつくった。
「まだ斃れるつもりはありませんよ。わたしはエオウィンを未亡人にするつもりはありませんから」
「それは良い心がけだ」
背中合わせに剣を構えながら、狭まってくる包囲網に対峙する。どこから攻撃がくるか、神経を研ぎ澄ませて目を配る。だが、誰一人飛び出してこない。先程まではバラバラに仕掛けてきたのに、囲みを狭めてくるだけで斬り込んではこない。このままではまずい。早いうちに切り崩さなければ……。
——まだか。
先刻浮かんだ言葉を、ファラミアは再び胸の内で呟いた。部下と別れてから、ずいぶん時間が経ったように感じる。なのに、一向に騒ぎが起こらないのは……、
しくじったのか。
厭な考えが頭をよぎったとき、
ドォン!
ビリビリと辺りを震わせながら、凄まじい音が轟いた。敵兵の注意がファラミアたちから逸れる。その隙を逃さず「行くぞ」と、エレスサールが地を蹴った。ファラミアもその後を追う。
「倉庫の連中でしょうか」
「だろうな。しかし、何をやったんだか……」
エレスサールが気がかりそうに呟いた。確かに、単に火を放っただけではあんな音は鳴らない。そうして走るうちにも、前方で再び轟音が鳴った。倉庫の方角が朱の色に染まり、砦の一部からも炎が噴き出しているのが見えた。近づくにつれ熱い風が吹いてくる。
「彼らは無事でしょうか」
「だといいが……、火薬のにおいがする」
エレスサールが足を止めた。
「では、今のは……」
ファラミアは絶句した。倉庫に火薬があったのだ。それでは——、
火を付けにいった彼らは、あの爆発に……。
顔から血の気が引いた。
ドンッ!
また爆発が起こった。火炎が夜空を焦がすように高く上がっている。ファラミアは我知らず、倉庫へ向かって駆け出そうとした。
「待て、ファラミア」
エレスサールに腕をつかまれる。それを振り払おうとしたとき——、
「ファラミア様」
彼らの声が聞こえた。振り返ると、物陰に二人の野伏が立っていた。
「無事だったか……」
「はい」
「ファラミア様も、陛下も」
「ああ、無事だ」
エレスサールが穏やかに笑った。
「それにしても、火薬を使うとは考えたな」
「ええ。あの樽が火薬だったのです」
酒樽だと思ったのが、火薬だったというわけだ。つまり、あの倉庫は食糧庫ではなく、武器庫だったということか。
「ただ、それで時間がかかってしまいまして……」
申し訳なさそうに言う部下の肩を、エレスサールは気にするなというように軽く叩いた。
「いいさ。うまくいったんだ。——とにかく、今のうちにここを出よう。この機を逃したら出られなくなる」
今や砦は大騒ぎだった。さっきまで片づけようとしていた二人連れの曲者のことなど誰も構っていない。四人の野伏は砦の側面を滑り下り、中腹の門へ走った。門は既に野伏の手によって制圧されていた。ファラミアとエレスサールの二人は更に道を下り、大門を目指した。そこにも野伏がおり、彼らの手で跳ね橋が下ろしてあった。そして——、
風に乗って、馬のいななきが聞こえてきた。木立の向こうで待機していたゴンドール軍が動き出したのだ。
「執政殿の狙いどおりだな」
「陛下のおかげです」
エレスサールがいなければ、自分は槍に突き殺されていた。いや、そもそも、火を放つまでの——実際には火薬を仕掛けることになったのだが——時間稼ぎもままならなかっただろう。
「助かりました。感謝いたします」
「そう感謝されることでもないが……」
自身の功績を誇らない主君は戸惑ったように呟いた。が、長年生きているぶん、切り換えも早かった。
「だったら、わたしが紛れ込んだことは不問にしてくれないか。あなたの規律違反も問わないから」
その「だったら」はどこからつながる論理なのだ。まったく……、己の働きは謙遜しながら、取引を持ちかけるのだからちゃっかりしている。
「それとこれとは別の話です」
ファラミアはきっぱりと断った。
「わたしも処分を受けますゆえ、陛下もご自身の軽々しい行いは重々反省してくださいますよう、お願い申し上げます」
「……わかった」
がっくりと肩を落とす主を眺め、ファラミアはひっそりと笑みを浮かべた。このままもう少し楽しみたい気分になったが、あいにくそれを許す情況ではない。
——続きはすべてが片づいてから。
蹄の音は今や足下から地響きを感じるほど間近に迫っていた。
◆◇◆◇◆◇◆
夜が明ける頃、砦はすっかりゴンドール軍に制圧されていた。砦の主から数日のうちに一万の援軍が来ることになっていると聞かされ、ゴンドールの将たちは唸った。このまま砦に留まって迎え撃つか、砦の主と和議を結び、援軍が着く前にハルネン川を越えるか。
後者のほうが、この場の損害は少なくて済む。しかし、一万の援軍が到着すれば、すぐさま和議は破られるだろう。間をおかずして、ハルネン川の境界を侵されるに違いない。その懸念を払拭するには、援軍を率いてきた者も含めて和議を結ぶしかない。だが、それには彼らも打ち破らねばならない。
いくら砦を確保したとはいえ、持ち堪えられる保証はない。そもそも、長期の篭城戦は攻守のどちら側になろうと避けたいところだ。しかも今は多くの捕虜を抱えている。内外で呼応されたら総崩れになるだろう。
ひとつ勝ちを得れば、その勝利を確実なものにするため、更なる勝ちを望む。キリがない。負け戦でもないのに、悪循環に嵌ったような錯覚に陥る。
だが、それでもここは退けない。戦いが長引けば、その負担はやがて民に重くのしかかっていく。国境で争いが続く情況をつくってはならない。
「砦に留まり、迎え撃ちましょう」
「勝算がありそうだな」
「はい。黒い布を大量に用意できれば。あと甲冑も欲しいですね」
それから四日後の未明、ハラドの援軍が現れた。
計画立案だけでなく工作も自らこなす執政。
エージェント(代理人という単語のコーサク員)要らずの国王。
こんなツートップでいいのだろうか……。
エージェント(代理人という単語のコーサク員)要らずの国王。
こんなツートップでいいのだろうか……。