嫉妬[4]
夜明け前に目を覚ましたファラミアは、身支度を調えるべく書斎を出た。湯を使い、服を改める。ローブとリネン類を用意させると、それらを抱え、改めて書斎に向かった。
回廊から覗く空の色が濃藍からやわらかな紺青に変わっていた。刻々と変わる黎明の空。ファラミアはしばし足を止め、空を眺めた。光が満ちていく紺青の変化のさまは、主の瞳の色に似たところがあり気に入っていた。
ピィー、チチチチ……。
庭木から鳥が飛び立つのを見て、ファラミアは再び歩き出した。
書斎はまだ薄暗い。ファラミアは続き部屋に入るとリネン類とローブを椅子にかけ、カーテンを開けた。淡い光が部屋を満たす。
「ん……」
寝台で眠っていた人が身じろいだ。ぱたっと寝返って、顔がこちらに向く。乱れた黒髪の間から、美しい青灰色の瞳が覗いた。
「おはようございます」
ファラミアは意識して笑いかけた。昨夜、自分がした仕打ちを考えれば、笑みを浮かべるどころか、主の前に出ることすら畏れおおい。だが、だからこそ避けてはならないと思った。
「ご気分はいかがですか」
良いわけないと思ったが、一応訊いてみる。他にかける言葉がぱっと浮かばないあたり、思っている以上に自分は緊張しているのかもしれない。そして、予想どおりと言うべきか、エレスサールの返答はなかった。とはいえ、怒っているようにも見えない。ただ、ぼんやりとこちらを見ているだけだ。
——薬の影響が残っているのだろうか。
効き目の強い薬ほど、副作用も強い。
「大丈夫ですか」
尋ねながら、エレスサールの額に手を当てた。熱はなさそうだ。それに安堵し、乱れた髪を直して手を離す。と、不意にエレスサールの手が伸びてきた。
——払われるか、叩かれるか……。
拒絶の動作が頭をよぎる。だが、それらの予想はどれも外れた。エレスサールは力無くファラミアの指先をつかむと、枕元に引き寄せた。弱い力だったが、ファラミアはよろめき、半ば寝台に腰掛けながら枕元に手を付いた。
「……ラミア」
疲れと渇きで掠れた声が呼ぶ。続くのは苦情か、怒りの言葉か——しばらく待ったが、その後、エレスサールは無言だった。
「どう……なさいました?」
沈黙に耐えきれず、ファラミアは問いかけた。だが、エレスサールの答えはない。言葉の代わりのように、訴えるような光が青灰色の瞳に満ちていく。
——何か欲しいのだろうか。
「水を召し上がりますか?」
寝起きなら口が渇いているのは間違いない。そう思って尋ねたが、エレスサールは緩くかぶりを振った。
「では、ご気分が……」
優れないのは間違いないはずだ、その確信を持って訊こうとしたところ、エレスサールが口を開いた。
「……すまない」
思いがけない言葉に、ファラミアは聞き違えたと思った。しかし——、
「あなたを傷つけることはわかっていた」
続いたのは謝罪を裏づける言葉で、すぐ前の言葉は自分が聞き取ったとおりのものだと考えるしかなかった。
「国事と別だといっても、割り切れることではないことぐらい……」
本当はわかっていたと言うように、潤んだ瞳が揺れた。
「だが、どうしても……彼を突き放すことができなかった」
苦しげな告白に愕然とする。
「許してく……」
「お止めください」
許しを乞おうとする言葉が主の口から漏れそうになり、慌ててファラミアは遮った。
「あなたに謝られたら、わたしの立場がありません」
つい口調が強いものになってしまい、言ったそばから後悔した。これでは謝罪を拒否するように受け取られてしまう。
「……それも、そうだな。すまな……いや……、謝って済むことではないな。あなたにもエオメル殿にも酷なことをした。詫びて済まそうとするのは卑怯だな」
案の定と言うべきか、エレスサールは自嘲するように唇をゆがめ、黙ってしまった。
「そんな、卑怯などと……」
自身のことをそんなふうに言ってほしくない。
「お詫びしなければならないのは、わたしのほうです」
なぜ? ——言葉はなかったが、そう問うようにエレスサールの首が傾いた。
「あなたに無体を働きました」
ぽつりと呟く。ほうっと、エレスサールの口から意外そうな息が漏れ、青灰色の目がまたたいた。
「少しは後ろ暗く感じてもらっているわけだ」
「……ええ」
ファラミアは気まずいながらも頷いた。主君に一服盛っていいように嬲るなど、到底許される行為ではない。その場で首を刎ねられても当然の暴挙だ。それぐらいの自覚はある。だが、思いがけず、エレスサールは小さく笑った。
「——ということは、執政殿の怒りは解けたと、そう受け取ってもいいのかな」
にっこりと笑むいたずらめいた表情に、ファラミアは虚を衝かれた思いがした。
——この人には敵わない。
醜い嫉妬も、愚かな自嘲の思いも、こうして溶かされてしまう。
「……ええ。もう怒っておりませんよ」
「それはよかった」
エレスサールがほっとしたように笑う。
「何しろ、昨夜の執政殿ときたら、それはもう恐ろしかったからな」
「ご冗談を」
ファラミアは苦笑した。彼は数多の死線をくぐり抜けた戦士であり、智恵者でもある。自分ごときに心から恐怖するはずがない。
「お起きになりますか」
身体が辛いだろうと思ったが、血色はいい。念のために尋ねてみれば、エレスサールは「いや」と小さく首を振った。
「もう少し休んでいていいかな。朝議には出るから」
「本日はお休みになってよろしいですよ」
ファラミアはやさしく答えた。この事態を引き起こしたのは自分だ。王が休息を取ることに異を唱えようとは思わない。けれど、エレスサールはいささかうんざりしたように息を吐いて言った。
「いや。休んだら、また仕事が溜まりそうだ」
「一日ぐらいでしたら——」
大した量にはならない、と言おうとしたが、彼はいいんだと言うように手をひらひらさせ、目を細めた。
「間に合うように起こしてくれ」
「——かしこまりました」
体調を思うと休んでいてほしいが、主君が出席を望むのに強く反対する理由はない。ファラミアは立ち上がった。
「朝食の支度が整いましたら参ります」
食事だけではない。湯や衣服の用意も必要だ。それらを整えるべく踵を返そうとしたとき——、
「ファラミア」
重い声に呼び止められた。振り向くと、エレスサールは仰向いたまま口を開いた。
「わたしはエオメル殿に言ったんだ。個人としては何一つ約束できないと——」
ファラミアは息を呑んだ。国事と切り離した関係という前提では当然のことだが、恋する者には酷な条件だ。
だが、何事も真正面から臨むあの青年は、臆することなく条件を受け止めたに違いない。愚直なまでの率直さでもって。そして、それこそがエレスサールが彼を突き放せなかった理由だろう。
そう思うと、少し羨ましくなった。かの国の草原を吹く風のような義兄の気性が——。
「だが、ファラミア——」
エレスサールがこちらを向いた。
「あなたには一つだけ約束できることがある」
青灰色の瞳に決意の色が浮かぶ。
「どこへ出かけようと、この世に在る限り、わたしはわたしの執政の在るところへ帰る」
ファラミアは瞠目した。
「それだけは約束できる」
信じられないような言葉にぶるりと身体が震える。湧き上がってきた歓びで胸がいっぱいになった。膝をついて、エレスサールと視線を合わせた。
「ならば、わたしはあなたのお帰りを待ちましょう。陛下。ただし——」
そっと主の手を取る。
「あまり長い間お出かけになりませんよう。わたしは『王帰りますまで』と唱え続けた代々の執政たちのように気が長くありません。留守が続いたら、捜しに参りますよ」
「わかった」
エレスサールは口許を緩めた。
「安心してくれ。そんなに留守にするつもりはない」
「そう願います」
「ああ」
エレスサールはほのかに笑んで目を閉じた。その顔をファラミアはやすらいだ気持ちで眺めた。
主の他出には常に心配がつきまとった。さまざまに気を揉んできた。だが、今後はその手の漠然とした不安が少しは減るだろう。
——お帰りになると約束してくださったのだから。
静かな寝息を立てはじめたエレスサールの頬に、ファラミアはそっと口づけた。
END
<[3]
リクエストの“無体な真似をしてしまうファラミア”部分のみ合っている話をお送りしました(コラ)。
でも、無体な真似をしたファより、エレ王のほうがシドイ人かもしれません(苦笑)。まあ、拙作のヘーカはそんな人です(ヲイ)
でも、無体な真似をしたファより、エレ王のほうがシドイ人かもしれません(苦笑)。まあ、拙作のヘーカはそんな人です(ヲイ)