嫉妬[1][2][3][4]

嫉妬[1]
友好国ローハンを訪問していたエレスサール王が帰国した。先月、ミナス・ティリスを発ってから二十五日後のことだった。王が長期国を空ければ、当然、執務の書類が溜まる。もちろん、国政に影響のないよう調整はしており、可能な限り、執政職を務めるファラミアが代理で決裁を行っていた。
しかし、王でなければならないこともある。また、いくら代理で決裁が済んでいるからといって、その内容を王がまったく知らないではまずい。そういった諸事を引き継ぐこともあって、帰国後のエレスサールは執務に忙殺されていた。
「外に出るのはいいが、留守にすると一遍に書類が溜まるな」
蝋燭の灯りの下でペンを走らせながら、エレスサールが苦笑した。
「こちらに目を通していただければ一段落つきますよ」
ファラミアは王の前に書類を広げた。
「ああ——」
青灰色の瞳が文字を追っていく。
「わたしの署名も要るかな」
末尾に記されたファラミアの署名を見てエレスサールが顔を上げた。
「はい」
ファラミアは即答した。自分の署名はあくまでも仮のものだ。王を戴いた今、執政の決裁のみで国政が動く例をつくってはならない。エレスサールを迎えて以降、ファラミアが貫いてきた方針だった。
執政家は父の代までの千年近い歳月、国を統治してきたが、その権利は帰還せし王の手に返上した。エレスサールを迎えたときから国を統べるのは彼の役目なった。その姿勢を周知徹底させるため、大きな事案はすべて王の承認を得ると決めた。
明文化はしていないが、執政の判断のみで国が動くと勘違いした者が現れないところを見ると、王権強化の方針は行き渡っているのだろう。
「あなたが処理してくれていなかったら、もっと大変なことになっているんだろうな」
さらりとペンを走らせたエレスサールがにこりと笑った。
「ありがとう。ファラミア」
細められた青い目に信頼の光が浮かぶ。
「いえ……」
どうして、この人はこんなに無防備な笑顔を見せるのか。主の視線を受け止められず、ファラミアは静かに目を伏せた。
「さて、これで一段落ついたわけだな」
書類を箱にしまっていると、席を立ったエレスサールが弾むような声で言った。
「ええ」
「では、褒美をいただこうか」
すっと、エレスサールの手がファラミアに前に差し出された。王が褒美をねだるなんて、と眉を顰める話ではない。夕食後、早めに書類が片づいたら、執政館で夜食を取りたい——王としてはささやかな要望だ。
取り決めどおり書類は早く片づいた。何の問題もない。常なら歓迎する話だ。だが、今は素直に喜べなかった。なぜなら、
——黄金館で陛下は夜間お出かけになったようです。
——どちらへ?
——それは……、お出かけになったところは誰も見ておりませんので……。夜明け前に廊下を歩いてお戻りになったのでわかったのです。
ローハン訪問随行員の報告が引っかかっていた。他国の宮廷で朝帰りした王は、なぜだか突如疲労感を訴え、予定を半日送らせた。夜のうちにどこへ出かけ、何をしていたのか……。
ローハン王エオメル、あの年下の義兄がエレスサールを見る目には、自分と同質の光があった。それを前提に考えれば、夜のうちにあった出来事は嫌でも察しがつく。それを確かめるべきか、疑念を抱きながらも気づかないふりを通すか…。多忙にかこつけて結論を先送りにし、ズルズルと三日が過ぎた。
——確かめてどうする。何の益もないではないか。
頭の中で警告の声が響く。そのとおりだと思う。自分は臣下で、主の行動を束縛する権利はない。素知らぬ振りを通すのが正解だ。
だが、二人きり、酒を酌み交わしたら理性が保つだろうか。問い質さずにいられるだろうか。場所が自分の館なら尚更、彼を責めることを抑えきれないだろう。己の欲望ゆえに……。けれど、そんなことはしたくない。
「執政館の夜食が褒美になりますか? 城の料理長のほうが腕は確かでしょう」
ファラミアは、やんわりと主の訪れを回避する言葉を口にした。しかし、こちらの胸の内にまったく気づいていないらしい彼は、ファラミアの言葉を穏やかに否定した。
「そんなことはないさ。確かにここの料理長の腕は間違いないが、執政館の料理長も引けを取らない。特に彼の故郷の料理だという、魚介を煮込んだトマトスープは格別だ。あれは城では出ない」
それはそうだろう。あのスープは港町の漁師たちが売れ残りの魚介類を鍋に入れたのが由来だ。そんな土くさい鍋物が国王の食卓に上るわけがない。執政館でも賄い料理としてつくられていたものだ。それが国王の口に入ったのは、やはり夜食でのことだった。
スープを出したほうは他の料理を用意できない不本意な出来事だったのだろうが、厨房の思いに反してエレスサールは気に入った。以来、執政館を訪れた際、しばしば注文するようになった。
「このところご無沙汰だったからな」
庶民の味を好む王がにこにこと笑う。その様子は屈託した思いを抱く身にも実に微笑ましく映った。だが——、
「実はローハンで、エオメル殿が地元の料理を用意してくれたんだ。ほら、半日遅れただろう? そのおかげでありつけたんだが、あちらの土地の料理を食べていたら懐かしくなってね」
ローハン、エオメル——二つの単語に、ファラミアのこめかみはぴくりと痙攣した。
「まあ、執政殿が迷惑なら止めるが……」
無反応で突っ立っているファラミアを訝しく感じたのか、エレスサールが窺うように首を傾げた。
「まさか。迷惑などと、そのようなことはございません。歓迎いたしますよ」
ついさっきまで回避しようとしていたはずなのに、するりと招く言葉が口をついて出た。
「ありがとう」
うれしそうに目を細める主君に、ファラミアは微笑んで頷いた。胸の奥で蠢く昏い想いを隠して——。
[2]
白の木の王は外交でも内政でも身体を張って励まなければならないようです(違)。

“港町の漁師たちが売れ残りの魚介類を鍋に入れたのが由来”の“魚介を煮込んだトマトスープ”は伊太利のカッチュッコ(Cacciucco)をモデルに記述しました……なんて、実のところ食べたことはありません(^^;)<コラ