Shine[2]
「ファラミア様」
白く濁った靄の向こうから自分を呼ぶ声が聞こえた。後から下りてきた野伏が底に着いたのだ。
「今行く。そこで待っていろ。無闇に動くな」
ファラミアは声を張り上げた。靄に包まれた谷の岸辺は、手を伸ばした先さえ見えないような有り様だった。不用意に歩き回っては、下りてきた位置を見失ってしまう。ファラミアは谷に下りると、そばにある突き出た岩に予備のロープを結んだ。まさに今その命綱をつかんで歩いている。
ロープを頼りに引き返すうち、靄の中にぼんやりと人影が浮かび、やがてそれははっきりとした人の形になった。
「すごいですね。一歩先すら見えない」
下りてきた野伏は崖に短剣を突き刺し、軽い力で抜けないことを確かめると、その柄にロープを結んだ。
「ああ。ここへ戻れなくなったら遭難確定だ。絶対にそのロープを放すな」
「わかってます。——陛下は?」
「まだ見つからない。だが必ず近くにいらっしゃるはずだ」
ファラミアは自分に言い聞かせるように言った。少し見ただけだが、この辺りの岸辺は表面が苔に覆われているようだった。靄に包まれているから遠く感じるだけで、下りてきた感触では崖の高さもさほどないように思えた。余程のことがなければ“最悪の事態”にはなっていないはずだ。
「わたしはもう一度こちらを捜す。お前はそっちを頼む」
野伏の背後を指す。彼は振り返って頷いた。
「わかりました」
「見つけたら合図しろ」
「はい」
ファラミアは踵を返し、ロープを引きながら再び歩きはじめた。鞘ごと外した剣で足下を探りながら、一歩一歩慎重に進む。そうして岸辺——崖と川の間——を往復するうちに、ブーツの先が目に飛び込んできた。
「陛下——」
白濁した闇に包まれ、エレスサールは横たわっていた。右手に剣を握ったままだ。放す間もなかったのか、それとも意志でそうしたのか……。
手袋をはずし、首に指先を当てると確かな脈を感じた。苔が救ってくれたのか、ヴァラールの恩寵か、とにかく最悪の事態は免れたことに安堵した。エレスサールの手から剣を取り、鞘におさめると、ファラミアは合図の指笛を吹いた。
それから、主の身を丁寧に仰向かせた。運ぶとしても、外傷の具合を確かめておく必要がある。骨折していた場合、動かす前に固定したほうがいい。腕や足を軽く動かしてみたが、幸い一見してそれとわかる症状はなかった。
眉の上に傷ができている。肩と腕、足にも裂傷があった。おそらく崖を落ちたときにできたのだろう。ファラミアは懐から取り出した布で、こめかみにつたう血を押さえるようにして拭き取った。しかし、すぐに傷口から新たな血が滲み出し、球状に膨れ上がり、額のカーブに沿って流れ出した。ファラミアは包帯を取り出し、布を固定して巻いた。
腕の裂傷も出血が酷い。衣服が赤黒く染まっている。布で縛り、とりあえずの処置をした。それを済ませ、他の傷を見ようと視線を動かしたとき、左の二の腕に、刃の走った傷が目に止まった。エレスサールが崖を落ちる直前にオークが付けた傷だった。様子をよく見ようとしたとき……、
「——ファラミア様」
背後からやわらかな苔を踏む足音がした。
「陛下はご無事ですか!」
野伏が勢い込んで訊く。
「ああ。息はなさっている」
とはいえ、意識はなく、安心できる状態ではない。
「お怪我は?」
「裂傷が幾つかと斬られた傷……。今のところはそれ以外、見当たらない。とにかく、上へお運びしよう」
ファラミアはエレスサールを抱え起こした。だが、そのとき、近くで何かが動く気配を感じた。野伏と二人、顔を見合わせる。この場所とこの情況で現れるのは十中八九、敵だ。
「陛下をお運びしろ」
ファラミアは野伏に小声で命じた。彼のほうが体格がいい。ファラミアがエレスサールを運ぶより安全だ。野伏は小さく頷き、身を屈めてエレスサールを肩に乗せた。
「後退するぞ」
二人はその場から静かに退がりはじめた。ロープを頼りにそろそろと足を後ろへ運ぶ。我ながらじりじりする歩みだが、この靄では崖までの距離を一息に駆けることはできない。下手に走れば足を滑らせる。逸る気持ちをおさえ、息を殺して退がり続けた。
前方から低い唸り声が聞こえた。何か良からぬもの——おそらくオークがいるのは確実だ。ファラミアはロープを左手に持ち、剣の柄に手をかけた。荒い息遣いが迫り、靄に黒い影が浮かび上がる。
「グオォ!」
咆吼とともに、白い闇から幅広の剣を振りかぶったオークが現れた。ファラミアはロープを放し、剣を抜いた。振り下ろされる刃を受け止め、背後の野伏に言った。
「行け!」
野伏は身を翻したものの、躊躇したように足を止めた。
「早く!」
ファラミアは怒鳴った。
「陛下をお連れしろ!」
陛下のひと言が効いたのか、野伏は足早に靄の中へ消えた。
——これでいい。
ファラミアはオークに向き直った。兜がへこみ、腕に傷があるところを見ると、先の戦いで谷に蹴り落とされた生き残りかもしれない。唸り声を上げて斬りかかってくるのを空振りさせ、胴へ剣を叩き込んだ。確かな手応えがあり、ドウッと倒れる音がした。
ファラミアは血糊を払い剣をおさめると、手放したロープを探した。戦ったとはいえ、そんなに場所は動いていないはずだ。視界の利かない中、丹念に地面を探る。これでロープが見つからなかったら、今度は自分が捜されることになる。
——あった。
ファラミアはほっと息を吐き、ロープを手に取った。たぐりながら、帰路を急ぐ。
——陛下は無事に崖を上がられただろうか。
崖が見えてきて、ファラミアは足を速めた。先に行った野伏はもう登り切ったのか、垂れているロープは揺れていない。彼がロープを結んだ短剣もなかった。ファラミアはたぐってきたロープをほどいてまとめ、垂れているロープをつかんだ。岩場に足をかけ、身体を持ち上げる。
「——ファラミア様?」
上から声が聞こえた。
「今、上がる」
返事をすると、
「そのままつかまっていてください。引き上げます」
ありがたい言葉がかかった。
「わかった」
強い力に引き上げられ、ファラミアは崖の上に這い上がった。
「陛下は?」
エレスサールは道の端に寝かせられていた。ファラミアが膝を付いたその横で、左の二の腕の傷に薬草を当てようとした野伏が眉を顰めた。傷口を見て、ファラミアもまた眉根を寄せた。袖をまくったその傷の周囲は皮膚の色が変色していた。
——毒だ。
ファラミアは自分の迂闊さを悔いた。谷底では、裂けた布から覗く傷をほんの一瞬目にしただけだったため、気づかなかった。少量といえども、体内に毒が入っている。一刻も早い療治が必要だ。だが——、
「まず谷を出ましょう」
野伏は傷に薬草を当てがっただけで、エレスサールを肩に担いで立ち上がった。
「ここでは火が熾せない。処置ができません」
雨の降り続いた岩場を見まわし、ファラミアは頷いた。傷を切開するにも、剣を抜いて抉ればいいというものではない。野伏の武具はオークや獣を屠って汚れている。炎で焼くなり、煮立った湯に浸けるなり、前処置が必要だ。その処置を取らなければ、切開して毒を抜いても、別の毒素が入って傷口が壊疽しかねない。
——間に合ってくれ。
走る野伏の背で揺れるエレスサールを見つめ、ファラミアは祈った。
◆◇◆◇◆◇◆
十字路で傷の応急処置をし、繋いであった馬に乗って、ファラミアたちがオスギリアスの公館に駆け込んだのは日の暮れる頃だった。
エレスサールは直ちに医師の手に委ねられた。先行の野伏もここへ辿り着き、処置を受けたという。ファラミアは着替えを済ませて軽い食事を取った後、彼らを見舞った。
例の五人の若者は緊張から解き放たれた安心感からか、ぐっすり眠っていたが、古参の野伏は起き上がってファラミアを迎えた。
「ご無事で何よりです」
「すまない。心配をかけたな」
「いいえ、とんでもありません」
そう快活に笑った男だったが、突如、声を潜めて「ところで——」と言った。
「陛下のご容態は?」
詳細はわからなくとも、意識がない程度のことは聞いたのだろう。不安げな表情だった。
「良い、とは言えない」
ファラミアは慎重に答えた。最後に斬り結んだオークの毒の剣で傷を負ったと、ありのままを話すべきか……。実は同行した二人の野伏には既に口止めしてあった。
眼前の男は決して口が軽いわけではない。だが、王が危篤状態にあるという話は、それだけで人心を不安にさせる。そうした不安は伝播しやすく、及ぼす影響も大きい。いたずらに不安を広めることは避けたかった。
「わたしもまだ医師からはっきりしたことは聞いていない。治療の邪魔だと追い出されてしまってね。これから拝聴してくるよ」
ファラミアは努めて明るく言い、「ゆっくり休んでくれ」と野伏たちを労って部屋を出た。足早にエレスサールが運ばれた部屋に向かう。廊下に響く足音がいつもより高く聞こえた。
「どうだ?」
扉を叩くこともせず無造作に開け、振り返った医師に短く問う。
「傷の縫合はいたしました」
右腕の裂傷が酷く、出血も多かったと医師は言った。
「左のおみ足を脱臼なさっていました」
落ちたときに足首を打ち付けたのだろう。現場ではブーツに隠れてわからなかった。確認できなかったのは落ち度だが、脱臼で済んだのなら不幸中の幸いと喜びたいところである。しかし、今一番の懸念は毒の影響だ。
「解毒は?」
「できるだけのことはいたしましたが……、おそらく今夜が山でしょう」
医師は沈んだ表情で言った。
「そうか……」
「申し訳ありませぬ」
生真面目な性質なのか、医師が軽く頭を下げた。
「謝らぬほうがいい」
ファラミアは医師が謝罪するのを止めた。
「万が一の場合、治療に過失があったとして責任を取らされるぞ」
医師は信じられないことを聞いたというように、目をしばたたかせた。
「……そのようなこと、閣下はなさいませんでしょう」
「買い被りだ」
ファラミアは嗤った。
「誰かに責を負わせたくなるときもある。そのほうが、自分を責めるより遙かに楽でたやすい」
他人のせいだとそう思い込めれば、どんなにか楽だろう。彼が毒刃の犠牲になったことも、誰かの責任にしてしまえれば……。
「それでも——」
医師が静かに言った。
「わたしには閣下が安易に人を責めるとは思えません」
だから、それが買い被りなのだと薄く笑ったとき、医師の口から正論が発せられた。
「そもそも、陛下が怪我を負われたのは閣下の責任ではないでしょう」
「……わかっている」
正論は容赦なくファラミアの胸を抉った。そう、本当はわかっている。誰のせいでもない——自分のせいにすらできないことが、何より腹立たしいのだと。
「ご苦労だった。休んでくれ」
なんとか声をしぼり出し、それだけ言った。
「閣下もお休みください」
「ああ……」
丁寧に礼をして、医師は扉を出ていった。ファラミアはまろぶように寝台へ寄った。ほのかな灯りの中、目に入ったのは額に包帯を負かれ、血の気を失った顔だった。苦しそうに眉根を寄せている。その息は頼りない。ファラミアはそっとエレスサールの額に触れた。思ったとおり熱かった。
——なぜ……。
汗の浮いた主の首筋を拭いながら、ファラミアは唇を噛んだ。
——なぜ、こうなることを防げなかったのか。
やはり止めるべきだったのだ、谷に入ることを。あの谷は前王朝のゴンドール王を滅ぼし、その家系を耐えさせた。
アナリオン王朝最後の王エアルヌアは、モルグル王の挑発からミナス・モルグルへ向かい、消息を絶った。王の死を目撃した者はおらず、骸さえ還らなかった。妻を娶らなかったエアルヌアに世嗣はなく、ときの執政マルディルは“王の御名の下”に国を統べることにした。そして千年近い歳月の間、この国は王なき王国となった——。
災厄の地だと知っていたのに、なぜ、みすみす……。
——喪うのか……?
縁起でもない思いがよぎった瞬間、膝が震え、がくりと力が抜けた。何かがのしかかってきたように肩が重く、立ち上がろうにも足に力が入らなかった。途方もない疲労感に襲われる。くたくただった。けれど……、
——今夜が山でしょう。
とても眠れそうにない。ファラミアは座り込んだまま顔を覆った。
◆◇◆◇◆◇◆
寒い……。
アラゴルンは身体を震わせた。それに、
ウワアァァン……。
耳鳴りがする。
ゴオッ……。
それとも風の音だろうか。それにしても、酷く寒い。なぜ……。いったい自分はどこに居るのだろう。
不意に誰かの手が額に触れた。誰だろう。目を開けなくてはと思ったが、なぜか開かなかった。まぶたが重い……というより、くっついてしまって開かない、そんな感じだった。
——わたしはいったいどうしてしまったのか。
頭の中で呟かれた問いに、当然ながら答える声はない。身体を動かそうにも、まったく力が入らない。手ぐらい持ち上がらないかと思ったが、無駄な努力に終わった。
しかし、意思では動かせない身も寒さには震え、カクカクと小刻みに動く。
——寒い。
動かないはずの手足が寒さに縮まり、背が丸まる。その途端、身体のあちこちに痛みが走った。けれど、それも寒さに比べればマシだった。
——寒い。
身を丸めても、寒気は一向におさまらない。
——寒い……。誰か……。
助けを呼ぼうにも、声は出ない。
——誰か……。
「う……」
必死になってようやく出した声は、言葉にならない獣のような呻きだった。それも己の耳にすら弱々しい響きで、到底、誰かに届いたとは思えない。
——このまま凍えるのか……。
心細さが寒さを増す。肩を強張らせ、ガタガタと震えていると、突如、温かなものに包まれた。滑らかな布が頬を撫でる。力強い腕が肩と背中にまわされた。
——温かい……。
自然に身体から強張りが解け、アラゴルンはほっと息を吐いた。肩を支えていた手が、まるで幼子をあやすかように髪を撫ではじめる。くすぐったいものを感じたが、やさしい指づかいは心地良く、このまましばらく続けばいいと思った。
——もう寒くない。
その安心感から、アラゴルンの意識は穏やかな波間をたゆたうように、ゆっくりと遠のいていった。
◆◇◆◇◆◇◆
どれくらい時が経った頃だろう。しんと静まり返り、時折ジジッと蝋燭の燃える音が響くだけだった部屋で、
「う……」
呻き声が聞こえ、ファラミアはハッと振り返った。寝台に手を付き、立ち上がる。
「陛下……?」
呼びかけたが、エレスサールの返事はない。目が開くこともなかった。だが、身を縮めて震えている。寒いのだ。
ファラミアは椅子にかかっていた毛布を取り、既に一枚かかっている毛布の上からエレスサールの身を覆った。首まですっぽり包み、そのままぎゅっと肩を抱いた。エレスサールが小さく息を吐いた。それはとても熱かった。
少しでも苦しさがやわらげばと、ファラミアは主の髪を撫でた。そうしているうちに、彼の頭がことりとファラミアの胸にもたれかかった。愛おしさが込み上げる。
——必ず助かる。
自身を信じ込ませるかのように、ファラミアは胸の内で呟き続けた。
この[2]だけで「怪我して流血&失神」した「王様を身を挺してかばい、必死に癒すファラミア」はクリアでしょうか。ほかの部分、要らないかも(^^;)<コラ
毒のインパクトが強くて、流血が霞んでしまっているあたりが難ですが……。
でも、少々流血したぐらいじゃ、王は失神しないだろうし(失神してもすぐに気づきそう)、ファも切羽詰まる前に立ち直って説教をはじめそうです(受・攻ともにやっかいなキャラだな)。
だからといって太い動脈を切ったら、冗談でなく失血死しそうだし(中つ国で輸血なんてできない)、助かっても後遺症が残ったり、痕が疼いたりしそうだし……。<何を真面目に考えている
首や胴が切断されない限り死なない“神”や“仙”だというなら、手を地面に縫い付けるぐらいやってもいいけど(痛いヨ〜)。<物語が違うから
ぐるぐるぐる〜と中身の乏しい頭をまわし、死なない程度の毒を使うことにしました(ヲイ)。
毒のインパクトが強くて、流血が霞んでしまっているあたりが難ですが……。
でも、少々流血したぐらいじゃ、王は失神しないだろうし(失神してもすぐに気づきそう)、ファも切羽詰まる前に立ち直って説教をはじめそうです(受・攻ともにやっかいなキャラだな)。
だからといって太い動脈を切ったら、冗談でなく失血死しそうだし(中つ国で輸血なんてできない)、助かっても後遺症が残ったり、痕が疼いたりしそうだし……。<何を真面目に考えている
首や胴が切断されない限り死なない“神”や“仙”だというなら、手を地面に縫い付けるぐらいやってもいいけど(痛いヨ〜)。<物語が違うから
ぐるぐるぐる〜と中身の乏しい頭をまわし、死なない程度の毒を使うことにしました(ヲイ)。