Shine[1]
しとしとと降る雨がマントの表面に筋をつくって流れ落ちていく。フードをかぶり、前を合わせていても衣服は濡れる。ぐっしょりと水気を吸った服は重く、べたりと肌に張りついて、なんとも言えぬ不快な気分にさせてくれる。
——まあ、慣れてはいるが……。
野伏としてイシリアンの森を歩きまわった経験を持つファラミアはふっと息を吐き、細かい雨を降らせる空を見上げた。そして、すぐに後悔した。目に入ったのは岩石ばかりの黒褐色の山肌と、濃い灰色の雲が低く垂れ込めた陽の射さない空だった。肌にまとわりつく湿気と相まって憂鬱さが増す。
では下を見ればいいかと言うと、そうではない。靄に覆われて、流れているはずの川すら見えない状態は、何もかもを呑み込む化け物が口を開けているようでぞっとしない。まさに呪魔の谷——イムラド・モルグルと名付けられたとおりの地だ。冥王が滅んだ今も、闇の勢力に支配された影響は強く残っている。
——そこへオークを追ってとはいえ、足を踏み入れたというのだからな。
ファラミアは呆れ半ばに、先を行く数人の若者を見遣った。彼らは最近、配置替えでイシリアンの野伏に加わった、いわば新人だ。人手の足りない野伏に転属者が来るのは朗報だと思ったが、古参の者が言うには、よそで持て余した問題児が押しつけられた形に近いらしい。
——うちはあんなのが勤まるところじゃないですよ。
やっかい者を押しつけられたと野伏全員がおかんむりで、幾人かがエミン・アルネンへ直訴に現れた。彼らの“あんなの”呼ばわりに、ファラミアは野伏になり立ての頃の我が身の評判を思い出し、苦笑した。
当時の執政家の次男坊は戦歴もわずかで、これといった手柄もなかった。それがいきなり“長”として着任したのだから、当時の野伏たちが感じた苦々しさは今、目の前で顔を顰めている者たちより遥かに上だったろう。追い出されなかったのは、
想像していたよりは使いものになったから——
なのだろう、きっと。懐かしい過去を思い出しながら、ファラミアは言った。
——だったら、遠慮なくしごいてやれ。性根が入れかわらなかったら、早晩辞めていく。
軍とはそういうところだ。やる気のない者に手取り足取りで教えるほど親切にできていない。脱走ならともかく、落伍者が退役するのを引き留める物好きはいない。
——人手が欲しいのは嘘じゃありませんよ。
好んで追い出したいわけではない、使える人材なら欲しいと、言い訳めいた言葉が返ってきた。
——わかっている。軍務にあたっているからもう少し待ってくれ。
軍内で人気が高いのは近衛や王都の警備などの花形だ。森の中を這いずりまわるのが日常で、隠密裡に事を運ぶばかりが任務の、華々しい手柄とは縁遠い野伏は敬遠される。現王の前身が北方の野伏だったというのはよく知られるところだが、それでなり手が増えるものでもなかった。
それに今はよその隊も人手が余っているわけではない。思うように補充ができないのはどこも似たようなもので、現状でやり繰りしてもらうしかなかった。とはいえ、手が足りない分、一人一人の負担が増える苦労はわかる。だから、ファラミアは言った。
——どうしてもという緊急時は言ってくれ。一人だけ当てがある。
ここに、と自分を親指で示すと、眼前の男たちは目を剥いた。
——何をおっしゃるのですか!
——それでは我々の立場がありません。
昔のよしみという軽い気持ちで言っただけなのだが、彼らはとんでもないと眉を吊り上げ、「閣下がそれでは陛下への示しがつきません」という言葉まで飛び出した。現場に首を突っ込みたがるエレスサール王の振る舞いは、野伏の間でも有名らしい。
——それは違うぞ。陛下は手が足りていても出向きたがるが、わたしは人が足りない場合に限り、手を貸そうと言っているだけだ。
——同じです。
違いを説明したが声を揃えて否定され、人手不足の話は有耶無耶のうちに終わった。だが——、
それからしばらくして、“どうしてもという緊急時”が訪れた。それも、古参が“あんなの”呼ばわりした新入りの勇み足によって。おまけに……。
「霧が濃くなってきたな。後ろはどうだ? ファラミア」
すぐ目の前を歩いていた細身の野伏が振り返った。ゴンドールの王エレスサールその人である。新入りたちのしくじりは大切な主君をも引っ張り出してしまった。青灰色の瞳に常の輝きがないのは、呪魔の谷の暗さのせいばかりではない。
「後ろのほうが霧が濃いですね」
主君の疲労に眉を顰めながら、ファラミアは背後を一瞥して答えた。
「このまま無事に谷を抜けられればいいが……」
「とにかく進みましょう」
「そうだな」
エレスサールは血の気の薄い顔に微かな笑みを浮かべて前を向いた。その足取りにいつもの軽快さはない。ひょっとしたら、歩くのも辛い状態なのかもしれない。
——止めるべきだったのだ、なんとしてでも。
だが、主の強い意志の前に、ファラミアは口を噤んだ。
——見捨てろと言うのか? 黒の息の恐ろしさを知っているあなたが?
——ですが、アセラスが……。
——別段、なくてもなんとかなる。ちょっと疲れるだけだ。
エレスサールはそう言って、最後に見つかった一人を癒した。
◆◇◆◇◆◇◆
十字路付近を巡回するのはイシリアンの野伏の通常任務だった。影の山脈のふもとでオークと遭遇するのも、そう珍しいことではなかった。モルドールは崩壊したが、残党は少なくない。野伏たちにとってそれらの出来事は日常の延長だった。
それが、オスギリアスの公館に滞在していたファラミアの元へ駆け込み、エレスサールまで引っ張り出すほどの緊急事態になったのは、新入りたちがオークを深追いし、モルグル谷に入り込んだからだった。制止の声も聞かず、勢いのままにオークを追った彼らは谷の奥深くへ進み、そこに残っていた濃い障気に当たり、次々と倒れた。
後を追ってきた仲間がそれを発見し、命がけの救出活動によって、若者たちはとりあえず障気の届かない場所まで運ばれた。だが、救出活動もそこまでが限界だった。細い谷道を辿って、意識のない若者数名を運び出すのは困難を極める。しかも、いつオークと遭遇するかわからない土地である。そのうえ、雨も降り出せば、外傷のない被害者を起こして歩かせることを考えるだろう。
しかし、障気に当たった彼らはいくら呼びかけても目覚めなかった。
ファラミアの予定を知っていた者が、十字路から西進し、アンドゥインを渡って公館に駆け込んできたのが昨日の夕方だった。その場にエレスサールもいたのが、勇み足の若者たちには僥倖だっただろう。
——わたしも行こう。もしかしたら、役に立つかもしれない。
エレスサールが手をひらひらさせて言った。黒の息からも救い出す癒しの手だ。確かに効果があるかもしれない。しかし、向かう先は呪魔の谷だ。ファラミアとしては、そのような場所に王を近づけたくはない。だが、
——今ここに、わたし以外にこの力を持つ者はいないんだ。
救える可能性があるなら、見捨てる選択はしない——青灰色の瞳に浮かんだ勁い光に逆らえなかった。
王はアセラスを所望したが、ミナス・ティリスの療病院と違い、公館には乾燥させたものが僅かにあっただけだった。
王が用いれば格段の効能を発揮する植物ということは知られるようになったが、王家の血筋でなければその効力を引き出せないため、他の薬草のように豊富な量を備えていないという。
倒れた若者は四名だと聞いた。ぎりぎりである。救助にあたった野伏の中にも体調不良を訴えている者がいるというから、それを考えれば明らかに足りなかった。
——療病院へ使いを出します。
——いや、そんな時間はない。障気が黒の息と同じ性質のものだったとしたら、時間が経つほど悪くなる。既に一日が経過しているんだ。取りに戻っていたら手遅れになる。このまま発とう。
夜を徹してモルグル谷へ急いだ。幸いオークやワーグに出くわすことなく現場へ辿り着いた。その時点で既に二日近く経っていたが、黒の息ほどの凄まじさはないのか、王の癒しによって目覚めた若者たちは——軽々とではないものの——なんとか自力で歩ける状態にまでなった。これで後は引き返すのみと誰もが思ったが、そうはならなかった。
——もう一人いました。
目覚めた若者たちが口を揃えて言った。ファラミアはどういうことだと、古参の野伏を見遣った。点呼確認は最低限のことだ。それができていないなど、あり得ない手落ちである。
——とにかく捜そう。
責任追及は後だというようにエレスサールが言った。王の言葉に否やはない。余力のある野伏二人が四名の発見場所まで引き返していき、やがて一人の若者を運んできた。彼はぐったりと意識を失ってはいたが、息はあった。しかし——、
アセラスが残っていなかった。
◆◇◆◇◆◇◆
谷の道を歩き続けて、どれくらい時間が経った頃だろうか。煙る雨の中、黒々とした塔が見えてきた。ミナス・モルグル——呪魔の塔である。手前の橋はかの戦いの折り、落とされた。邪悪なものが川を渡らぬように。
かつて月の塔と呼ばれた壮麗さは想像もつかない、見るもおぞましい姿だが、この塔が見えるということは谷の出口も近いということだ。けれど、気は抜けない。崩壊を免れた敵の建物は残党の拠り所になりやすい。
ヒュ……。
そぼ降る雨に交じって厭な羽音が聞こえた、途端、
「伏せろ!」
カンッ!
エレスサールが叫ぶのと、頭上で硬い音が鳴るのとほぼ同時だった。身を屈めた頭の上で再び鏃が岩に当たる音が鳴った。対岸でオークが弓矢を構えている。ファラミアは背負っていた弓を素早く構えた。古参の野伏は既に矢をつがえている。
ビュ……。ヒュンッ。ヒュン……。
弓弦の音が連続し、一番近いオークが倒れた。
「走れ!」
若者たちに向かってファラミアは叫んだ。癒しの力で目覚めたとはいえ、彼らは病み上がり同然の状態だ。戦闘に耐えるだけの体力はない。走る力も残っていないかもしれないが、ここは是が非でも足を動かさねばならぬ場だ。そうしなければ生きのびられない。それぐらいのことは彼らもわかるのだろう。揃って駆け出した。が、すぐにその足が止まった。
「グアァ!」
人間ばなれした雄叫びが上がり、岩陰からオークがばらばらと現れた。
キィン……。
五人の若者が剣を抜く、その鞘走りの音と同時に、ファラミアの脇でも剣を抜いた人がいた。右手に細身の長剣を提げ、五人組へ加勢するべく駆け出す。
止める間もなく、主は五人の若者をかばうようにオークの前へ出た。さっと振った剣を両手で握り直し、突っ込んでいく。先頭のオークの一撃を躱し、がら空きになった脇から胴を横へ薙ぐ。崩れるオークの脇を抜け、迫ってきた新手の喉元へ向かって斬り上げる——目を見張る戦いぶりだが、その動きはいつもより敏捷さを欠いていた。
当たり前だ。アセラス無しで癒しの力を使った彼は、五人に劣らず疲労している。
「向こうは頼んだぞ」
対岸のオークの始末を他の野伏に任せ、ファラミアは剣を抜いてエレスサールの元へ走った。
ガ、キィィン!
斬りかかってくるオークの剣を受け止め、その脛を蹴り飛ばし、体勢が崩れたところに剣を叩き込みながら谷へ突き落とす。
「陛下は彼らを連れて先に進んでください」
今は体力が弱っている者をここから脱出させることが先決だ。
「わかった」
エレスサールは頷くと、斬り結んでいたオークを谷底へ叩き落とし、五人を促して駆け出した。
「一人、付いていけ」
野伏の一人が振り向き、剣を抜いて六人の後を追う。ファラミアは彼らを追おうとするオークの足下を斬り払った。元々、現れたオークの数は少ない。対岸のオークを減らした野伏たちが剣を抜いて加わると、形勢はたちまちこちらが優勢となった。残ったオークは不利を悟ったのか、後退りし、やがて身を翻した。
「退くぞ!」
逃げていくオークを見送り、ファラミアは言った。掃討は後日でもできる。今はとにかく一刻も早く無事に谷を抜けることだ。剣を抜いたまま、谷の出口へ急ぐ。すると、幾らも進まぬうちに、先へ行ったはずのエレスサールたちの姿が見えた。彼らは別のオークの集団と戦闘中だった。足を速めて戦いに加わる。
「——陛下!」
「すまん。足止めを食らった」
エレスサールが自嘲するように言った。
「すぐに進めますよ」
返事をしながら、ファラミアは叩き込まれる刃を流して弾き、返す剣で腕を飛ばした。利き腕を失ったオークを蹴り飛ばし、次を仕留めにかかる。敵を倒しながらゆっくりと、だが、確実に谷を抜ける道を進む。
そうしてオークの数を減らし、視野に入る最後の敵を斬り伏せて、ファラミアは周囲を見まわした。エレスサールが斬り結んでいる。激しく討ち合ううちにエレスサールがよろめき、雨にぬかるんだ地面に足を滑らせた。そこをオークの刃が襲う。エレスサールはとっさに躱したが、その切っ先は腕を掠めた。助成しようとファラミアは足を踏み出す。だが、遅かった。
不安定な体勢で身を躱した王の足下を、凶刃が襲う。彼はその場に踏み止まることができず、その姿は乳白色の靄の中へ落ちていった。
「陛下っ!」
オークを斬り伏せ、崖に駆け寄る。しかし、靄に覆われた谷底が見えるはずもない。覗き込んでも白い闇があるだけだった。全身が総毛立つ。だが、青くなっている場合ではない。
ファラミアは無言で剣帯に提げていたロープを手にした。道の端に突き出ている岩を蹴り、崩れないことを確かめてロープを巻き付ける。
「——ファラミア様」
オークを片づけた野伏が二人、駆けてきた。残りはそれぞれ、お互いの傷の具合を見ている。重傷者はいないようだが、障気に当たった者たちはかなり辛そうだ。座り込んでいる。
「陛下は?」
一人があたりを見まわしながら訊いた。
「落ちた」
ファラミアは短く答えた。悠長に話している暇はない。
「え……?」
訊いた野伏が絶句し、もう一人は息を呑んだ。二人の顔つきが一変する。
「二、三人残し、あとは障気に当たった者を連れて先を急げ」
「何を……」
「この谷は陽が射さない。ぐずぐずしていると、またオークが現れる」
いつの間にか雨は止んでいたが、雲が幾層にも重なった灰色の空はそのままだ。
「助かりたかったら一刻も早く谷を出ることだ」
ファラミアはロープをきつく結び、先端を谷底に投げ落とした。
「それはわかります。ですが、助かるならあなたも一緒です。先へお進みください」
「陛下を置いてはいけない」
「もちろんです。陛下は必ずわたしどもがお助けします。ですから、ファラミア様は——」
「ああ、もちろん、手は貸してもらう。わたし一人で無事にお連れできるとは思わないからな」
だが、主を置き去りにする気はない。自分は障気に当たったわけでも、重傷を負ったわけでもない。安全圏で結果を待つのではなく、救出に向かうことこそ相応しい行動だろう。ファラミアはロープを握り締め、崖のふちに足をかけた。
「間を空けて一人下りてきてくれ。もう一人は道を見張ってくれ。残りは谷を出ろ。いいな」
渋々ながら二人は頷いた。それを見てファラミアは乳白色に淀む景色の中へ下りていった。
[2]>
障気ってなんだよ! 腐海かよ!——というツッコミは自分でしておきました(^^;
というか、王の癒しの力は黒の息を払う以外に、いったいどういう効能があるのでしょう? 怪我や病気にも効くのでしょうか?
アセラスを使うと周囲にいた人たちも気分が良くなるようなので、それこそヒーリング効果はたっぷりなのだろうけど、実効としてはどうなのか。そのあたりがさっぱりわかりません。<ヲイ
——だったら書くなよ。
ハイ、ごもっともでございます(^^;
ですが、この王を失神させるとなると、ある程度弱らせておく必要が生じます。でないと、素直に失神してくれそうにありません。<ヲイ
癒しの力の実効はわからずとも、アセラス無しで使うとけっこう負担らしいのは原作から窺い知ることができます。
というわけで、程良く(?)弱っていただきました(コラ)。
というか、王の癒しの力は黒の息を払う以外に、いったいどういう効能があるのでしょう? 怪我や病気にも効くのでしょうか?
アセラスを使うと周囲にいた人たちも気分が良くなるようなので、それこそヒーリング効果はたっぷりなのだろうけど、実効としてはどうなのか。そのあたりがさっぱりわかりません。<ヲイ
——だったら書くなよ。
ハイ、ごもっともでございます(^^;
ですが、この王を失神させるとなると、ある程度弱らせておく必要が生じます。でないと、素直に失神してくれそうにありません。<ヲイ
癒しの力の実効はわからずとも、アセラス無しで使うとけっこう負担らしいのは原作から窺い知ることができます。
というわけで、程良く(?)弱っていただきました(コラ)。