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Shine[4]
まぶたの裏で明るさを感じ、アラゴルンは目を開けた。白い光の中、天蓋と寝台の柱が見えた。
——朝か。しかし……。
自分の寝室ではない。
——いや、あれも正しくは寝室ではないが……。
床に転がって寝るものぐさな王を見かねた執政が、執務室の隣へ寝台を運ばせ、なし崩し的にそこが寝室となった。王と王妃が別々にお休みになるとは……と、後宮の官吏は嘆いているが、肝心の妃は「たまにはわたくしのところへもお寄りくださいね」と笑っているだけだ。
——それにしても……。
アラゴルンは天蓋を眺めて考えた。
——ここはどこだろう。
普段使っている執務室の隣でもなければ、後宮でもない。
——見覚えがあるようにも思うが……。
とにかく起きようと思い動いたところで、
「ぐっ……」
全身に軋むような痛みが走り、上体を起こすこともできずにアラゴルンは呻いた。痛みで肌が粟立ち、冷や汗が出てくる。
だが、その痛みが意識を失う前のことを思い出させてくれた。障気に当たった者がいるという話を聞いてモルグル谷へ出向き、その帰路、遭遇したオークと斬り結んでいるときに足を滑らせ、谷へ落ちた——ということは、
——ここはオスギリアスか。
モルグル谷から十字路を経て川を渡ればすぐだ。公館には医師が常駐しており、傷病者を搬送する地に最適だ。天蓋に見覚えがあるのも当然だった。幾度か泊まった部屋だ。
それにしても、あれから何日経ったのだろう。ずいぶん長い間眠っていたような気がする。
——とにかく、人を呼んで状況を確かめよう。
あのとき同行した者たちはどうなったのか。自分がここに運び込まれていることを考えれば、おそらく無事なのだろうが……。
アラゴルンは痛みを堪え、身体を横向きにした。寝返りを繰り返すことで寝台を下りようと思ったのだが、横を向いた途端、そんな考えは吹き飛んでしまった。寝台脇のテーブルに金髪に覆われた頭が乗っていたからだ。
——ファラミア……?
やわらかな金色の巻き毛は己の右腕のものだ。アラゴルンは悲鳴を上げる身体を宥めながら、ずるずると寝台の端に寄った。身を乗り出すようにして、金の髪が垂れた肩へ手を伸ばす。肩先に指が軽く触れただけで、びくんと肩が震え、驚いたように執政が顔を上げた。
「……やあ」
碧い目が信じられないといった感じに大きく見開かれる。
「その……ずいぶん……」
心配をかけたようだ。すまなかった——と詫びようとしたが、ファラミアが勢いよく立ち上がったため、その言葉は喉の奥に消えた。位置が高くなった碧い瞳は恐ろしいほどの真剣さで、こちらを凝視している。おまけに、握られた拳が細かく震えているではないか。
——そんなに怒らないでくれ……。
常々、アラゴルンに行動を慎重にするよう説き、モルグル谷への同行にも良い顔をしなかった彼が、“足を滑らせて谷へ転落し、意識不明に陥った国王”を苦々しく思っていることは間違いない。そして、それ以上に心配させたことも——。
苦言や諫言は避けることなく聞こうと思う。が、普段、見事な論を展開させる相手なだけに、かえって、思い詰めた顔に無言という組み合わせで迫られるほうが異様に感じる。
——正直、怖い。
アラゴルンは居たたまれなくなって視線を逸らした。途端——、
ガバッ!
と、表現したくなるような勢いで、アラゴルンは抱き締められた。
「……ラミア?」
らしくない反応に戸惑っている間にファラミアの腕の力は強まり、身体のあちこちが痛むアラゴルンは顔を顰めた。
「どうした?」
尋ねても腕の力が緩む気配はない。それどころか、ますます強くなってくる。ぎゅうと音が出そうなほどに締め付けられ、息苦しくなってアラゴルンはもがいた。けれど、腕は固定されたように動かない。
「おい……」
放せ、と苦情を訴えようとした矢先、耳が微かなすすり泣きの声を捕らえた。
——え……?
見れば、自分を締め付けるようにしている男の背中が小さく震えている。アラゴルンはなんとか自由になる肘から下の部分をそろそろと動かし、ファラミアの背にまわした。とんとんと軽く叩いてやる。
すると、彼の手が背中から首へと、頭を抱えるように伸びてきた。くしゃりと、いささか乱暴に頭を撫でられる。髪を引っ張られたせいか、額の傷が少々痛んだが、アラゴルンは黙っていた。
「よかった……」
呟きがぽつりと落ちた。感慨無量の声だった。それだけで、自分が目を覚ますまで彼がどんな思いをしていたのか、わかった気がした。傷ではない箇所がズキリと痛む。
「すまなかった……」
アラゴルンはかろうじてそれだけ言い、後は黙ってこの状況に付き合うことにした。やがて彼は手を放すだろう。そう長い間ではないはずだ。それまでの間なら、束縛するようなこの抱擁も悪くはない。
——傷は痛むが……。
アラゴルンは微苦笑を浮かべ、まぶたを伏せた。
◆◇◆◇◆◇◆
「失礼いたします」
ファラミアが昼食のスープを持ってエレスサールの寝室を訪ねると、彼は上体を起こし、書物をめくっていた。数冊の書物が寝台脇のテーブルに積まれ、傍らには用紙とペンとインクが置いてある。ファラミアは眉を顰めた。
——昨日の朝、目覚めたばかりだというのに……。
熱も下がりきっていないと聞いた。体力も自力で姿勢を支えられるほど回復していない。今も背と腰にクッションや枕をあてがい、そこにもたれている。
「大丈夫ですか? 無理はなさらないでくださいよ」
どうしても咎める言葉が出る。職務に熱心なのはけっこうだが、今はきちんと静養してほしい。
「大丈夫だ」
心配するなと言うように、エレスサールは笑った。
「ちゃんと休んでいるし、医師の言うことも聞いている」
その言葉は嘘ではない。同じことをファラミアは医師から聞いていた。曰く、陛下は素直に指示に従ってくださいますと——。
「では、その書は一旦閉じて、スープをお召し上がりください。医師の指示です」
エレスサールは苦笑いしたものの、栞をはさんで書物を閉じた。確かに素直な反応だ。スープの器を差し出すと、これまた素直にさじを動かしはじめた。体調を崩すと食が細る主にしては珍しい。今回のことはさすがの彼も懲りた——そういうことだろうか。
「執政殿こそ、無理をしているんじゃないのか?」
根菜と豆を煮込んだスープを口に運びながら、エレスサールが訊いた。
「ミナス・ティリスで朝議に出席していたなら、この時間にここへは来られない。朝議はどうした?」
主の声や表情は穏やかだったが、言外に訊かれている意味を悟り、ファラミアは背筋にぞくりとしたものを感じた。彼は「さぼったのか」と訊いているのではない、“朝議そのもの”をどうしたのか——つまり、朝議を開かなかったのではないかと訊いているのだ。怖い人である。
「何も無理はしておりませんよ。朝議を早めに終わらせただけのことです」
ファラミアは心配性の主のために、正直に種を明かした。
「それを“無理”と言うんじゃないのか?」
青灰色の瞳が疑わしそうにファラミアを一瞥する。
「出席者が納得してくれたのですから、無理とは申しませんよ」
ファラミアはさらりと答えた。話の通し方は少々強引だったかもしれないが、最終的に全員が納得したのは事実である。嘘ではない。
「それならいいが……」
釈然としない顔ではあったが、エレスサールは頷いた。朝議の件は納得したらしい。けれど、この主君はなかなか諦めの悪いところがある。
「しかし、あなたが昨日の午後、こちらを発って、今また戻ってきているのは事実だろう。きちんと休んでいるのか?」
「ご心配なく。休んでおります」
すかさずファラミアは答えた。本当はかなり睡眠時間を削られているが、そんなことをエレスサールの耳に入れるわけにはいかない。主君の性格を考えると、明日にでもミナス・ティリスへ戻ると言って、脱臼したばかりの足で馬に乗りかねない。彼の愛馬は、乗り手の体調が優れない場合、それなりに乗せるぐらいの芸当をやってのける。そんなことをされては病状が悪化するだけだ。治るものも治らなくなってしまう。
それに、こうして主が順調に快復している様子を目の前にし、言葉を交わせば、疲労など吹き飛んでしまう。
「陛下はそのようなことは気になさらず、今はご自分のお体のことをお考えください」
きっぱり言うと、エレスサールは小さく肩をすぼめて苦笑した。
「わかったよ」
スープを飲み込み、ふっと小さく息を吐く。
「ええ。今はしっかり療養なさってください。快復なさったら、存分に働いていただきますから」
存分に働いて、という部分に力を入れたせいか、エレスサールの顔が心なしか引き攣った。
「……ずっと寝ていようかな」
ぼそりと呟かれた言葉にファラミアは笑う。
「よろしいですよ」
主の手から空になった器を取り上げ、ついでに書物の積まれたテーブルを寝台から引き離した。エレスサールが惜しむ視線を向けたが、それには気づかない振りをする。
「どうぞお休みください。快復なさるまでなら大いに歓迎いたします」
そう言って寝かせると、主は仕方なさそうに笑って目を閉じた。その額にそっと唇を落とす。触れた肌はまだ熱かった。この熱が引くまで、こうしておとなしくしていてくれればいいが……。
ファラミアは器を載せたトレイを持って部屋を出た。厨房のある別棟へ回廊を渡っていく。建物に囲まれ、四角く切り取られた中庭の空から、白い光が射し込んでいた。一昨日までは灰色の雲が広がる重苦しい空模様が続いていたが、昨日の朝から青空が広がりはじめ、今朝は快晴となった。まるで、エレスサールが目覚めたことに呼応するかのように——。
ファラミアは足を止め、まばゆい青空を仰いだ。ファラミアにとって、病床の主が目を覚ましたことは、まさしく雲の晴れるできごとだった。あの美しい青灰色の目が開き、再び自分を映しているとわかったとき、ようやく呪魔の谷の暗い雲の下から抜け出た気がした。爽やかな風が回廊を吹き抜ける。ファラミアは目を閉じ、幸せな気分で風の感触を楽しんだ。頭上に広がる青空より美しい主の瞳を思い浮かべながら——。
END

[3]
ファの目にも涙(笑)。
そんな彼の心もラストは晴れやかに。まあ、彼の場合、主君が無事なら曇天も晴天かもしれません(^^;