Shine[3]
アラゴルンの頬に冷やりとしたものが触れた。次いで首筋にも同じ感触が当たった。固く絞った布のようだ。
以前は酷く寒かったように思うが、もうあんな寒気は感じない。熱を持った肌に冷えた布の感触は心地良く、アラゴルンは布とそれを操る手を警戒することなく受け入れた。しかし、その手が腕を動かしたとき、鋭い痛みが走り、アラゴルンは思わず呻いた。
「……?」
呼びかけにしては妙に遠い声だった。けれど、自分が呼ばれている気がして、アラゴルンは目を開けた。以前は重くて開かなかったまぶたも、今回はなんとか持ち上がった。だが、なかなか焦点を結ばない。それに焦れていると、男の声が聞こえた。
「…………」
何を言っているのかは聞き取れない。二、三度まばたきをして、ようやくぼんやりとした景色が見えた。ぼうっとした視界に黒い髪の人物が映った。さっきから自分を呼んでいるのが彼だろうか。こちらを覗き込み、彼がまた口を開いた。
「……ですか?」
何と言ったのか、西方語のはずなのに、やはりうまく聞こえない。
——大丈夫……ですか……?
そんなふうに補完してしまったのは、彼の声音にとても心配そうな響きを感じたからだ。
「だい……じょ……ぶ、だ」
アラゴルンは懸命に声をしぼり出した。
「しんぱい……、かけて……すまない……」
切れ切れの言葉を紡ぐうちに、いつも心配をかけている顔が浮かんだ。それで気づく。また自分は彼に心配させるようなことをしてしまったのだと。
——また叱られるな。
容赦のない言葉を想像し、アラゴルンは唇の端で微かに苦笑した。けれど、遠慮のない言葉を浴びせる彼が、アラゴルン自身より——いや、彼自身の身の上より、と言ってもいいぐらいに、この身を案じてくれていることは鈍い自分でもわかっている。
アラゴルンが単独で動くのは性に合っているからだが、彼はできれば警護役を付けたいと考えている。だが、数を減らした野伏にそんな余剰人員はない。だから自分を送り出すとき、彼はいつも渋い顔で釘を刺すのだ。
——いいですか。くれぐれも自重してくださいよ。族長。
遠く離れれば、頼りない長がヘマをしていないか気を揉み、そばにいてアラゴルンが怪我でもしようものなら、責任を感じて落ち込む。
——今回はどっちだったか……。
一緒にいたような気がするが——と頭を巡らせたところで、こめかみの辺りがズキズキと痛みはじめ、思い出しかけた記憶は霧散してしまった。目を開けているのも辛くなってくる。それで、アラゴルンは慌てて唇を動かした。
「……の……せいじゃない。だから……」
自分を責めるな。ハルバラド……。
混濁した意識の端でかつての仲間の名を呼びながら、アラゴルンは再び眠りの世界へ落ちていった。
◆◇◆◇◆◇◆
日没の閉門間際、ファラミアはオスギリアスの門をくぐった。一昨日の朝、ミナス・ティリスへ発ち、急ぎの執務を片づけて引き返してきたところだった。
街には明かりが灯っていたが、空は既に暗い。日没間もないというのに、曇り空のため残照の名残りはなかった。月や星の輝きもない。季節の変わり目だからか、このところ雲の広がるどんよりとした天気が続いている。まるで、この国の王の病状を象徴するかのように——。
エレスサールの昏睡状態は続いている。昨日、一時的に目を開けたそうだが、本当に僅かな間のことで、すぐにまた眠ってしまったと医師が報せてきた。
ファラミアには、そんな主の病状はまったく良くなっているように思えなかったが、医師の診立てでは一昨日の朝に峠を越したことになっている。公館の医師たちは口を揃えて、今後徐々に回復すると明言した。
そこまではっきり言われては、ファラミアも彼らを信じて任せるしかない。意識のないまま寒さに震える王を抱え、まんじりともしなかった翌朝、政務のためにオスギリアスを発った。
できればエレスサールのそばに付いていたかったが、無理矢理気持ちを切り換えた。国王の意識が戻らず床についている状況で、執政の自分まで職務放棄をしては国政がまわらなくなる。
と言っても、とても仕事に集中できる心境ではなかった。書類を開いても内容はさっぱり頭に入らず、腕の中で熱い息を吐いていた主の顔が目の前にちらつくばかりだった。
そんな具合だから、仕事はさっぱり捗らず、何をするにしても通常の倍の時間を要した。おかげで、一日でオスギリアスへ戻るはずつもりだったのが、一日延びてしまった。
けれど、自分はまだいい。こうしてエレスサールの様子を見に来られるのだから。気の毒なのは夕星の王妃だった。
——殿に何かあったのですね。なんとなしに厭な感じがしていました。
詳細はわからずとも、エルダールの能力で伴侶の変事を察していたのか、人払いをした王妃はそう言った。けれど、ファラミアが語った事態は彼女の予想を超えていたのだろう。普段は臣下が目を剥く良人の言動に動じず、コロコロと笑っているエルダールの妃も、エレスサールが毒の刃に斬られたと聞いて顔色を変えた。
毒の影響の峠は越えたという診立てでも、昏睡状態に変わりはない。枕元に駆けつけたいだろう。王妃の気持ちを思うなら、見舞うよう手配すべきであった。
だが、ファラミアは手配もせず、見舞いを口にもしなかった。また、彼女も要求しなかった。王妃が動けば、王の病状が深刻だという噂が広まる。
エレスサール王はオスギリアス滞在中、急に体調を崩され、大事を取ってしばし滞在を延ばすことになった——表向きはそう発表した。王の頑健さを知っている者には疑わしいだけの内容だが、まさか、オークの振るった毒の刃に斬られたとは言えない。
エレスサールがモルグル谷に足を踏み入れたことは、オスギリアスの公館の者でも医師以下、限られた者しか知らぬ極秘事項だ。王は公館を発つ際、「谷には入らぬ。十字路で待つだけだ」と笑って馬に乗ったのだ。
それが、実は谷の奥まで足を踏み入れてオークと戦い、毒の刃に斬られて崖から落ち、一晩危篤状態でした——なんて、とんでもないことは表沙汰にできない。築きつつあるテルコンタール王朝の礎がガタガタになってしまう。
隠しごとは誉められた話ではないが、何もかも正直にぶちまければいいというものでもない。嘘も方便。王の病状に快復の見込みがないというならともかく、危機は脱したと医師が太鼓判を押したのだ。いたずらに民を不安にさせるような話を公表するのは、避けたほうが無難というものだ。
——わたくしはここで殿のお帰りを待ちましょう。
薄暮のふたつ名を持つ王妃は自身に言い聞かせるように言った。
——殿の恩寵はまだ尽きていません。
それがエルダールの持つ力ゆえの確信なのか、彼女の願望なのか、ファラミアには知る由もない。だが、その直後「大丈夫」と微笑んだ王妃に、どんな不安も払拭するような力があった。
——わたくしはあの方を待つのには慣れております。あの方はいつだってわたくしを待たせるんですもの。
ふふ、と清楚に微笑んだ顔は美しかったが、同時にゴンドールが王を失う前より生きていたエルダールの、人の子が打ち破れない壁を感じた。
——でも、必ず戻ってきてくださいます。わたくしが中つ国に在る限り……。
ならば、思っていいのだろうか。ゴンドールの民のもとへも戻ると──。胸の内の暗雲を払えぬまま、ファラミアはオスギリアスの公館の門をくぐった。
◆◇◆◇◆◇◆
下馬したファラミアは、公館を預かる館長にあいさつを済ませ、エレスサールを見舞った。病床では、医師が額の包帯を取り替えているところだった。
「ご苦労だな」
エレスサールは眠っている。だが、一昨日に比べ、幾らか血色がよくなったように見えた。
「今日はお目覚めになったのか?」
ファラミアの問いかけに、医師は小さく首を振った。
「そうか……」
劇的な快復などあり得ないと頭ではわかっているが、今日一日、エレスサールが目を覚まさなかったことは、少なからずファラミアを落胆させた。彼がごく普通に目覚め、国政の場に戻るまで、あとどれくらいかかるだろう。それは果てしないことのように思えた。
「昨日はどんなご様子だった?」
そう尋ねたのは、せめて、目覚めたときの様子を詳しく知りたいと思ったからかもしれない。
「そうですね……。うわ言をおっしゃっていました。『大丈夫だ』『心配をかけてすまない』、それと——」
エレスサールの寝具を整えながら、医師は少し思案するように首を傾げ、おもむろに言った。
「よく聞き取れませんでしたが、『あなたのせいじゃない』——そうおっしゃったようでした」
ファラミアは瞠目した。
「おそらく、閣下とわたしをお間違えになったのでしょう」
医師は苦笑を浮かべると、一礼して部屋を出ていった。ファラミアは言葉もなくそれを見送り、改めて寝台を振り返った。
——あなたのせいじゃない。
自身が生きるか死ぬかという状態なのに、いったい何を気にしているのだろう、この人は。寝顔を見つめながら寝台に近づき、そっと額に手を伸ばす。
——熱い。
まだ熱は高い。そのことに、他者は癒せても、自分自身を癒せない彼の力の矛盾を思う。国のため、民のため……それは、どこまでも他者に尽くす力だ。まるで、そう生きなければ長らえることは叶わぬと宣告されているかのように——。こんなふうに感じるのは、とこしえに暮らす方々への冒涜だろうか。それとも主への侮辱になるだろうか。
ファラミアは微苦笑し、エレスサールの汗を拭った。熱は高いが、病状は一昨日よりマシになっているようだった。呼吸もしっかりしている。ゆっくりではあるが、主は間違いなく快方に向かっている。
その事実に少し安堵し、ファラミアは脇に抱えてきた書類箱をサイドテーブルに置いた。燭台を増やし、椅子に腰掛ける。灯りの下で書類を開きながら、ファラミアは自嘲の笑みを漏らした。
——こんなところで仕事に身を入れるとはな……。
主の穏やかな寝息を聞きながら、ファラミアは書類を繰りはじめた。
思い出しているのはハルバラドかよ! とツッコミたくなった方が多数いらっしゃるかもしれません(^^;
すみません、拙作の王はこういう人です(フォローになってない)。
意識混濁状態で、過去と現在がごっちゃになっているということで、堪えてやってください。
何にせよ、夢うつつで呼んだ名前を聞かれていなくてよろうしゅうございましたね、陛下(笑)。
すみません、拙作の王はこういう人です(フォローになってない)。
意識混濁状態で、過去と現在がごっちゃになっているということで、堪えてやってください。
何にせよ、夢うつつで呼んだ名前を聞かれていなくてよろうしゅうございましたね、陛下(笑)。