再生[2]
「それで?」
夕食後、長椅子にもたれ、のんびり酒杯を傾けている主をボロミアは睨みつけた。
「何を確かめに宿屋へ入ったのか、わたしはまだ聞かせてもらっておりませぬぞ」
あの後、アラゴルンは言葉どおり、さほど時を経ずして宿屋から出てきた。だが、いったい何を確かめに行ったのか、ボロミアがいくら尋ねても「後で話す」と躱すばかりで、何ひとつ話そうとしない。
「もっとも……、陛下がわたしなどに聞かせる理由はないと、そうお考えなら無理強いはしませんが……」
嫌みをぶつけてやったが、老獪さを持つ主は困ったように笑っただけだった。
「ボロミア。拗ねるな」
「拗ねているわけではない」
「わかった。怒るな。ちゃんと話す」
アラゴルンは立ち上がると、ボロミアの隣に来て腰を下ろした。
「裏口から見覚えのある男が入っていった。それで気になって確かめに行ったんだ」
「……男?」
そんな姿が裏口にあったかと、ボロミアは首を捻った。思い返してみてもわからない。だが、彼が見たと言うならいたのだろう。
「知り合いか?」
「まあ……そんなものかもしれないな」
アラゴルンは曖昧に笑った。単なる知り合いと称するには微妙な間柄といった感じだ。あの区画に宿屋を構えたことを考えると、素性の怪しい者なのかもしれない。
「で、その男は中にいたのか?」
「ああ。あそこの亭主をやっていた」
「何者なんだ? その男は」
「人買い」
ボロミアは耳を疑った。
「……なん……だと?」
「正確に言うと、人買いの運び屋だな。注文に応じて調達もしていたから、“仲買人”とも呼ばれていた」
愕然としているボロミアのことなどお構いなしに、元・野伏の主君はなんでもない口調で説明してくれる。そのうえ、呼び名の補足まで付けられて、ボロミアはあらぬ不安を抱いた。
「ちょっと待て、アラゴルン。まさか……」
あるわけがないと思いながら、人生経験豊富な主の前身を考えると否定しきれない。ボロミアは歯切れの悪い口調ながら、抱いた疑いを尋ねていた。
「その、あなたは……売られたことがあるのか……。それとも買われたことが……」
ほかの誰かが口にしたなら、ボロミアはその者を締め上げていただろう。疑った時点で不敬になることだ。
「なんでわたしが売り買いされるんだ」
しどろもどろの愚かな疑念の言葉は、ありがたいことに呆れた表情ではっきりと否定された。しかし——、
「北方の野伏の暮らしは確かに裕福とは言い難かったが、仲間を売り飛ばすほど堕ちてはいないぞ」
——誰がそんな意味で訊いた……。
なんだかズレた方向で反論され、ボロミアは安堵しながらも、がくりと肩を落とした。
「そうではなくてだな、その男のことを、あなたは見覚えがあるだけでなく、人買いの運び屋だったことまで知っている。ああいう連中の素性を知っているのは同業者か客、そうでなければ——」
「被害者か」
ボロミアの言葉を受け取るように、アラゴルンが言った。
「そうだ。だから——」
「一般的にはそうだな。だが、ボロミア。連中の仕事を邪魔すれば、おのずと素性は知れる」
「では——」
北方の野伏たちは人買いの組織も潰していたのか。
「彼は——あの宿屋の亭主だが、昔は海賊の端くれだったらしい。そこから、船を操る技術を買われて人買いの運び屋になった」
ボロミアの疑問を解くように、アラゴルンは話しはじめた。
「あの男は調子がいいというか、交渉上手なんだろう。売り手と買い手のトラブルをけっこう収めていたらしい。そのうち、買い手の注文を聞いて、調達するようにもなった」
「“人”をか」
ボロミアは口許をゆがめた。
「そう“人”をだ」
「ゴンドールでそんなことが行われていたとはな……」
モルドールに与する者たちに攫われた民がいることは、戦時中から知っていた。だが、国内に自国民を売り飛ばす組織があったとは予想外だった。しかも、そんな輩が戦いの後、大手を振って宿屋を営んでいるなど……。
「情けない」
苦々しい気分で杯を呷った。白葡萄酒の清々しいはずの味わいも、酸いた不快さだけが喉を通り過ぎた。
「そう気に病むな。当時の彼らの本拠地はウンバールだった。ゴンドールが東岸に手を出せなかった頃の話だ」
過ぎた失敗を責めない主がやさしい言葉をかけてくれる。だが、それで己の過ちを許せるはずもない。
「しかし、あなたと北方の野伏は手を出せていたんだろう」
「手を出したと言っても、数えるほどでしかない」
アラゴルンは自嘲気味に笑った。
「それに、当時のわたしたちは“国”というものを背負っていなかった。だから自由に動けたとも言える」
「けれど、捕らわれた人々を救ったことに変わりはない」
「ボロミア。そう持ち上げるな」
苦笑いを浮かべ、主はボロミアから目を逸らした。
「救出は偶然の産物なんだ。わたしたちは人買いの邪魔を目的に動いていたわけではない」
葡萄酒を注ぐ音に交じって、呟くような声が言う。
「探索中、鎖に繋がれ連れていかれる人たちを目撃した。さすがに見過ごしにできず、乗船や下船のときを狙って行動を起こした——それだけだ」
それだけ——のことを当時、ウンバール方面で実行するにはどれだけ大変だったか、知らぬボロミアではない。
「それだけであっても助けたことには変わりないと思うが……」
擁護する意見を言いかけたが、先程の断ち切るような主の口調に、これ以上、異議を唱えるのは控えることにした。何より、今問題なのは、元・人買いの運び屋がオスギリアスの一画で宿屋を営んでいることだ。
「……つまり、度々、野伏の襲撃を受けた船長が、あそこの亭主というわけか」
「ああ、そうだ」
「となると、今はあの宿が人買いの本拠地になっているのか?」
かつてはウンバールが本拠地だったそうだが、かの戦いで海賊が叩かれた後、移ってきたのかもしれない。王都に近いオスギリアスなど危険に思えるが、灯台下暗しとも言う。それに、都には戦争で親を亡くした子供たちがいる。調達には便利と言えなくもない。
しかし、アラゴルンは考え深げな表情で首を振った。
「そうではない……と思う。少なくとも人買いの本拠地ではないだろう」
「なぜ、そう思う?」
「人買いが本拠地にするにはあそこは中途半端だ。もっと人気のない場所か、街中なら、もっと大きな地所を用意する。近所に音が漏れないようにな」
もっともな意見だった。しかし、だから犯罪と無関係とは言い切れない。
「だが、他の悪だくみに使われていることはないのか? 宿屋なら仲間を泊めるのにも、情報収集にも都合が良い」
「さすが、鋭いな」
杯に口を付け、アラゴルンは目を細めた。
「実は中で気になる話を聞いた。夜明けに東岸を通って商人が橋を渡ると——」
「亭主が? そう話していたのか?」
アンドゥインの東岸から橋を渡る商人の多くは、南イシリアンで商用を済ませた帰路にあたる。つまり、商いの稼ぎで懐が暖かい者たちだ。
「ああ。亭主とカウンターにいた客がひそひそとやっていた」
「東岸から橋を渡る商人のことをひそひそ話すなど……」
ボロミアは眉を顰めた。
「そいつらは無頼者の仲間ではないか」
「おそらくな」
主は酒杯を揺らしながら、のんびりと頷いた。襲撃計画を聞いたというのに、緊張感がまったくない。その空気に喝を入れるべく、ボロミアは立ち上がった。
「何をのんきにしている! アラゴルン。酒を飲んでる場合ではないだろう。急がねば、また人が襲われる」
主君の肩をつかみ、揺さぶる勢いで言ってみたが、呆れ半ばの表情で返されたのは、場違いなほど冷静な言葉だった。
「落ち着け。ボロミア。まだ陽が沈んだばかりだ」
時間はあると、落ち着いた声が言う。
「だが、今のうちに手を打たねば……」
「わかっている」
低い声が応じた。
「密かに船で兵を渡らせるんだ。橋を使ったら兵が動いたことを悟られる。東岸に駐留している部隊と合流すれば、充分対処できるだろう」
しっかり現実的な判断が下され、ボロミアは愉快な気分になった。
「商人に警告は?」
「そうだな……。今から彼らの野営地を見つけられるか?」
「もちろん」
ボロミアは請け負った。その辺りのことはイシリアンの野伏や警備兵が押さえている。
「ならば、警告でなく足止めしよう。兵士に商人の格好をさせればいい。もちろん、周囲の警戒は必要だ」
「射手がいるな」
主の考えがわかって、ボロミアは呟いた。橋を渡るなら、ルートは限られる。賊もそのルートを狙ってくる。狙う彼らをこちらは捕捉せねばならない。それには——、
身を潜めて狙うことに長けた射手が必要だ。
「イシリアンの野伏の出番だな」
アラゴルンとボロミア、二人の口から同じ呟きが漏れた。目を見合わせて笑みを浮かべる。
「指示を出したら、今のうちに仮眠を取っておいたほうがいい」
「ああ」
ボロミアは杯を空けて頷いた。忙しい夜明けになりそうだ。