再生[1]
モルドールとの戦いの中、大河を挟むオスギリアスは闇の勢力の手に落ち、廃墟となった。冥王が滅び、ゴンドールは再び王を迎えたが、それで崩れた建物が元に戻るわけでもない。星の砦は今、かつての姿を取り戻すべく作業が進められている。
屋根が崩れ落ちた塔のそこここで、羽を休めていた数羽の鳥がザァーッという羽音とともに飛び立った。アンドゥインの上空で弧を描き、飛影を地面に落としながら、別の廃墟へと吸い込まれていく。そこからまた数羽の鳥が飛び立ち、今度は大河の向こうへ渡っていった。
鳥の飛翔を目で追ったゴンドールの白の塔の大将ボロミアの視界に、エフェル・ドゥアスの山並みが入った。連なる山々の上に広がるのは穏やかな青空と白い雲。かつての影はない。今では当たり前の風景だ。ボロミアはうれしげに目を細め、傍らの人物を振り返った。黒っぽいコートに剣を帯び、灰色のマントを羽織った姿はどこから見ても野伏だ。
「この辺りは酷いな」
目深にかぶったフードの陰から物憂げな声が漏れた。道は数歩先の坂の途中から水に浸かっている。立ち並ぶ建物も対岸からあった相次ぐ投石で破壊され、無惨な姿となっていた。だが、それらにも順番に手を入れている。
橋も仮設ではあるが架かり、整備の終わった区画では人々が暮らしはじめた。数ブロック先には朗らかな笑いの響く通りがある。数年前までは想像もできなかった光景だ。
冠水している場所も順番に水を抜く作業が行われている。その後、水門を直し、整備計画に従って建物を修繕・再建していく。やることは山積みだが、ボロミアにとってそれは労苦ではなく喜びだった。
モルドールの影が伸びる一方だった頃は、再建計画など考えても机上の空論にしかならなかった。それが実現可能となったのだ。これが喜びでなくて何であろう。今は崩れた建物ばかりだが、近い将来、伝え聞く壮麗な姿を取り戻すだろう。いや——、
伝説以上の麗しい都になるのだ。ゴンドールに新たな王朝を興した王の下で。
「アラゴルン」
ボロミアは明るい気分で王を呼んだ。こちらを向いたフードの下の顔は、思ったとおり憂いた表情をしている。そんな主の鬱屈を払うように声を強めた。
「確かにこの辺りの被害は甚大だが、徐々に手は入っている。あちらの方は——」
しゃべりながら、上流の岸を指す。
「既に水が引いた。ここもすぐ良くなる」
「そうだな」
アラゴルンは微笑して頷いたが、すぐにその顔を曇らせた。さっきからずっとこの調子だ。オスギリアスの復興計画は王の意向を汲んだもので、進捗状況は逐一報告が上がっている。彼も納得しているはずだが……。
「いかがされた。何か気がかりでも?」
気鬱の理由を尋ねると、青灰色の瞳が対岸を向いた。
「あちら側の治安が悪化していると、ファラミアが言っていただろう?」
「——ああ」
ボロミアも表情を引き締めて頷いた。
復興作業は西岸を優先して進められている。モルドールの支配が長かった東岸の荒廃は酷かった。放っておくつもりはないが、今のゴンドールに両岸の街を同時に整えるだけの予算はない。まずは王都に近い西岸を整え、その後、東岸に手を入れることで官吏の意見も一致した。
だが、最近、東岸の廃墟に無頼の者が住みつきはじめたと報告が入った。その連中が橋を渡る者を襲っているという。
イシリアン公となった弟のファラミアがエミン・アルネンに館を構えて後、南イシリアンにも徐々に人々が移りはじめた。未だに影の山脈の付近ではオークの出没も報告される不安定な土地だが、幾つかの集落ができていると、弟はうれしそうに話していた。
人が定住するようになれば、さまざまな物資が運び込まれる。大きな荷はアンドゥインの航路を利用するが、橋が架けられてからは陸路で運ばれる荷も増えた。イシリアンも賑やかになると喜んでいたが、皮肉なことに、それが胡乱な者たちを誘き寄せることになった。荷を狙う者が次第に増え、やがて、その連中は東岸の廃墟に住みついた。
大所帯の盗賊団ではなく、二、三人、多くても五、六人で、同じく少人数の旅人を襲うらしい。イシリアンの野伏と共同で警備強化に努めているが、広い街の廃墟すべてをカバーできるはずもなく、これという成果は上がっていない。
——このままではイシリアンもオスギリアスも廃れてしまいます。
弟の言葉が蘇る。確かに彼の言うとおりだ。今は少人数に分かれているが、連中が徒党を組むようになったら、橋を渡って西岸を襲うかもしれない。元締めのような人物がいるという話もある。捕らえた者が言っていたというのだ。廃墟と言っても、勝手にやって来て住みつくわけにはいかない。寝ぐらにするには許しがいるのだと——。
徒党を組むほど強固でないにしても、それなりの掟があり、仕切っている人物がいるということだろう。ああいう者たちにも縄張りがある。互いに荒らさないよう、一定の秩序を保っているというわけだ。
——忌ま忌ましい。
廃墟になったとはいえ、ゴンドールの由緒ある都だ。住まう許可を与えるのは王の権利である。どこの誰ともわからぬ輩が勝手をしていいものではない。
「この間は見回っていた兵士が襲われたそうだな」
アラゴルンが言った。
「人手は足りているのか?」
「他から応援を入れている」
ボロミアは短く答えた。この件は自分もファラミアも憂慮している。しかし、王に深入りさせてはならないというのが二人の見解だった。
「……そうか。しかし、それでは他が手薄になるだろう。それなら——」
考え深げな言葉に、ボロミアはピンと来た。
「陛下。東岸には渡らぬと、そう約束してくださいましたな」
前身が野伏だった彼は、厄介事に首を突っ込みたがる——これが、自分と弟が王に深入りさせたくない理由だった。彼が事に係わろうとする動機が困っているなら手を貸したいという、純粋な人助けの気持ちだということは承知している。また、大抵のことは解決できる能力があることも知っている。
しかし、末端組織の役目に王自らが乗り出すことない。王は国の統率者であって、末端組織の監督者ではない。この点を説明すると、この王は「わかっている」と答える。が、その舌の根も乾かぬうちに、事が起これば飛び出していくのだ。
オスギリアスの様子を見たいという要望があった今回、“ついでに、ちょっと橋を渡って”ということが起きないよう、ボロミアとファラミアの二人で「東岸へはお渡りにならないように」と釘を刺した。
「念押さなくてもわかってる」
アラゴルンは釘を刺されたときと同じく、苦笑交じりに肩をすぼめた。だが、その視線は対岸をさまよっている。
「しかし、このままの状態が続くと——」
「警備は強化しております」
ボロミアは無礼を承知で、諦めの悪い王の言葉を遮った。
「昨日ご説明申し上げて、ご納得していただいたはずだが——」
アラゴルンは「わかっている」と、また苦笑を漏らし、ボロミアの肩をぽんと叩いた。
「行こうか」
「そうですな。のんびりしていては日が暮れてしまう」
二人の投宿場所となる公館はペレンノールに近い。アンドゥインの流れが見えるここから歩くと時間がかかる。お忍び好きの王がすんなり戻ることにほっとしながら、ボロミアはすらりとした後ろ姿を追った。しかし——、
「ボロミア。悪いが先に行っていてくれ」
幾らも進まないうちに、アラゴルンは足を止めた。
「少し用がある」
「な……!」
何を言い出すのだと、ボロミアは面食らった。
「そんなことできるわけがないだろう。アラゴルン。それとも、あなたは最初からそのつもりで……」
「そうじゃない。ちょっと確かめたいことがあるだけだ」
そう言って、アラゴルンはある建物を目で指した。錨を彫った看板がかかっている。宿屋らしく、一階は食事を供する場になっているようだ。
「あそこがどうかしたのか?」
「ちょっと気になることがあってな」
軽く答え、アラゴルンは宿屋へ向かおうとした。ボロミアはとっさに彼の腕をつかんだ。
「何か知らぬが、わたしも一緒に行く」
この辺りはまだ整備がはじまっていない。ただ、被害が軽微だった建物に限っては、手を入れて住みつきはじめた人々もいる。自ら手を入れて住居を確保したくらいだから、この辺りの住人は独立気風が強い。
そんな場所で商売をしているのは良く言えば気の大きい、悪く言えば向こう見ずな人間たちだ。宿屋を営んでいる者はその典型で、中には単に向こう見ずなだけでなく、後ろ暗い過去を持つ者もいると言われている。そんな場所に大切な主を置いていくわけにはいかない。
しかし、当の主は首を横に振った。
「それは駄目だ。あんたは目立つ」
言われて、ボロミアはぐっと詰まった。確かにそのとおりだ。こうして質素な身なりをしていても、自分はアラゴルンのように、街の景色に馴染めない。非番の役人がせいぜいで、用心棒にすら見られない。
——育ちの良さが出るんだろう。
エルフの保護下で育った人に訳知り顔で言われたくないが、彼は見事なまでに周囲に合わせてしまうから反論もできない。
「わたしの見間違いでなければ、あんたのような人間があそこに入っていくのはまずい」
アラゴルンが意味ありげに宿屋を見る。つまり、脛に傷持つ者たちの宿……ということか。ならば、尚更、そんなところへ主君を一人やるわけにはいかない。
「危険だと言うなら、それこそ、あなたを行かせるわけにはいかない」
ボロミアは手の力を強めた。
「わかっているのか。あなたは王だぞ。もはや一介の野伏ではない。行動は慎重に……」
「ボロミア」
アラゴルンがすっとボロミアに身体を寄せた。そのまま背後の路地に押し込まれる。
「心配するな。無茶はしない」
とん、と壁に背が付いたところで、低い声が囁いた。
「先に行くのが嫌なら、ここで待っていてくれ」
青灰色の瞳が間近に迫り、まろい指がするりと頬に触れる。
「わたしは嫌だとか良いとか言っているわけでは……」
流されまいと反論しかけたが、唇にさっと掠めるような乾いた感触があって、ボロミアは言葉を失った。
「すぐ戻る」
短い一言を残し、黒衣の野伏は離れていった。
[2]>