再生[1][2][3][4][5]

再生[3]
影の山脈の上に広がる空が白んでいく。夜明けだ。ボロミアは靄の立つ大河の岸に立ち、対岸を見守った。
「行かなくてよかったのか?」
隣から静かな声がかかった。気遣うようでいて、若干のからかいを含んでいる。ボロミアはムッとして声の主を睨んだ。
「指揮は確かな者に任せてある。心配はない」
「それなら、公館で報告を待っていれば良いだろうに」
呆れたような声にボロミアはカチンときた。そもそも、自分が現場へも行けず、公館で待機もできず、河岸で突っ立っていなければならなくなったのは、この男が灰色のマントを羽織って抜け出そうとしたからではないか。
「そう言うあなたはなぜ出てきた」
ボロミアは眉を吊り上げて、男に振り向いた。しかし、相手——主君はまったく動じず、軽く目を眇めただけだった。
「言っただろう。野暮用だ」
公館で問いつめたときと同じ、とぼけた言葉が返ってきた。
「ここで突っ立っていることがか」
「ああ。だから、大将殿の手を煩わせることじゃないと言っただろう?」
にこにこと微笑み、こくりと首を傾げるさまは、わざとらしいほど素直に見える。だが、それこそが怪しい。特にこの笑顔は要注意だ。
「アラゴルン」
ボロミアは主の腕をつかみ、ズイと顔を寄せた。
「いくらわたしが鈍くても、今のあなたの言葉を信じられるほど抜けてはいないぞ」
「ずいぶんと、わたしは信用がないんだな」
弱ったものだと呟きながら、その口調はどこかおもしろがっている感じもする。本当のところ、困っても弱ってもいないのだろう。
「場合による。いったい何を企んでいる」
「何も——」
わざとらしい微笑を浮かべ、主は首を振った。
「何も企んでなどいないさ」
「では、何を隠している」
誤魔化されまいとボロミアは更に詰め寄った。
「ボロミア。何をそんなに……」
アラゴルンが一歩後ろへ退がる——と、青灰色の瞳がふとボロミアの背後を見遣り、その口が「あ」と開いた。
「おい、伝令が来るぞ」
「誤魔化すな!」
ボロミアは思わず怒鳴った。が、アラゴルンは「本当だ」と、ボロミアの肩越しを指した。その言葉を裏付けるように、ボロミアの耳にも蹄の音が聞こえてきた。
「閣下」
馬を下りた兵士が駆け寄ってきて跪いた。
「首尾はどうだ?」
「はい。出てきた賊はすべて捕らえました」
「よくやった」
ボロミアは兵士を立つように促しながら訊いた。
「橋の封鎖は?」
「はい。まだしてございます。わたし以外、通った者はおりません」
「では、お前が戻ったら、解除してくれ」
「かしこまりました」
兵士は力強く答えると、さっと騎乗し、去っていった。それを見送り、「戻るぞ」とボロミアは背後を振り返ったが、そこに主君の姿はなかった。
——しまった!
絶対に逃すまいと神経を尖らせていたというのに、ちょっと目を離した隙に……。
——くそっ!
ボロミアは地面を蹴りつけた。ほんの今しがただ。いくら俊足でも、まだ遠くへは行っていまい。だが、いったいどこへ行ったのか。東岸——には今更渡らないだろう。となると……、
——夜明けに東岸を通って商人が橋を渡ると——、
ボロミアの脳裏に、昨晩聞いた主の言葉が蘇った。
——亭主とカウンターにいた客がひそひそとやっていた。
今朝、襲撃があるとわかったのは、彼が元・人買いの運び屋を見かけたのが発端だ。
——あの宿屋だ。
ボロミアは駆け出した。
——何が野暮用だ!
あの宿屋にも踏み込もうという意見はあった。ボロミアもそうすべきだと意見を推した。だが、アラゴルンが止めたのだ——宿屋の客全員が賊ではないからと。
少々、胡散臭い者もいたが、大半の客は東岸の者たちとは無関係だ。先に東岸の者を捕らえ、彼らから宿屋の亭主の供述を取って踏み込んでも遅くはない。下手に踏み込むと、客に紛れて逃げ出される恐れがある。兵士の数もぎりぎりなんだ。焦ることはない——言葉巧みに強硬策を止めた。
——単独で踏み込む気か。
彼なら可能だろう。前身が単独で動いてきた野伏だ。忍び込んで、亭主一人を拘束することぐらい軽いものかもしれない。だが、絶対に危険がないとは言い切れない。走りながら気は焦る。ボロミアは叫んだ。
「アラゴルンッ!」
声は早朝の静まり返った空気を破った。だが、返事はない。構わずにボロミアは続けた。
「企んでいないと言いながら、逃げるのか。卑怯だぞ!」
壊れた建物が多いとはいえ、石造りの街並みだ。声は増幅され、遠くまで響いていく。
「それが忠誠を誓った臣下に対する、あなたの姿勢か。アラゴルン!」
彼に聞こえていると信じ、更に声を上げようとしたとき、前方にひらりと細身のシルエットが現れた。
「……ボロミア。付いてくるなら静かにしてくれ」
無造作にフードが落とされ、うんざりした顔が現れる。
「あなたが姿を眩ますからだ」
「だからって……」
額を押さえてため息をこぼす姿を見て、ボロミアはにやりと笑った。
「何か文句がおありですかな」
「いや……」
アラゴルンは天を仰ぎ、それからガクリと肩を落として首を振った。
「では、参りますかな。陛下」
「どうしても一緒に行くつもりか」
フードをかぶり直しながら、厭そうに顔を顰める。まったく往生際の悪い主君だ。
「当然だろう」
可能ならば、騒がれようと罵られようと、力ずくで連れ帰りたいのがボロミアの本心なのだ。ただ、それがこの主には通用しない手段なだけで——。
「帰れと言っても無駄なようだな」
「ああ、そのとおりだ」
ボロミアはふてぶてしいまでの態度で答えた。
「仕方がないな……」
主君は諦めの息を吐いた。しかし——、
「だが、付いてくるなら、わたしの指示に従ってもらう。勝手にしゃべるな。手も出すな。いいな」
直後、ボロミアに向き直った姿には、有無を言わさぬ勁さがあった。
◆◇◆◇◆◇◆
件の宿屋に着いたとき、すっかり夜は明けていた。辺りには明るく白い光が満ちている。これでは忍び込むのは難しい。だが、アラゴルンは気にする様子もなく、宿屋へ近づいていく。どうするつもりなのか訊こうとしたところ、宿屋の裏口が開き、初老の男が顔を出した。
短い灰色の髪に、油断のならない暗灰色の瞳をしている。人買いの組織はウンバールを本拠にしていたらしいが、男の外見はゴンドールの者に近かった。
「久しぶりだな」
アラゴルンが無造作に歩み寄る。
「わたしを憶えてるか?」
軽くフードの端を持ち上げた彼を見て、初老の男はフンと鼻を鳴らした。
「忘れるもんですかい。何度邪魔されたことか……」
やはり、彼が元・人買いの運び屋で仲買人の亭主らしい。
「今回も邪魔させてもらった」
「何?」
「夜明けに東岸で商人を襲う予定だっただろう」
亭主は一瞬呆気にとられた顔をしたが、すぐに笑みを浮かべた。
「莫迦を言っちゃいけませんや。わしはここにいるじゃないか」
だが、アラゴルンは相手の戯言をあっさり否定した。
「とぼけるな。お前があの連中の元締めだろう」
寛容で誠実な彼らしからぬ、伝法な言い方だった。けれど、今の彼には似合っていた。
「そのことで話がある」
拒否を許さぬ口調で、「入れろ」というように戸口へ顎をしゃくる。
「そっちの人は?」
亭主が探るようにボロミアを見た。すかさずアラゴルンが切り返す。
「わたしの連れだ」
文句があるのかと言わんばかりの高飛車な態度は、普段の彼からは想像できない姿だ。
「……どうぞ」
亭主は短い言葉を残し、自らも戸口の向こうへ引っ込んだ。すぐにアラゴルンが続き、ボロミアもその後に戸口をくぐった。すぐに扉が閉められる。
そこはカウンターへ続く厨房の片隅だった。朝早いせいか、仕切り扉の向こうは静かだった。
「こっちへ」
亭主が厨房の奥の部屋に入っていく。物置き代わりなのか、中にはテーブルと椅子が数脚、樽や麻袋が置いてあった。
「さて、お話とやらを聞かせてもらいやしょうかね」
扉を閉めた亭主が椅子に腰を下ろす。アラゴルンがテーブルに身を乗り出した。
「単刀直入に言う。足を洗え」
亭主の瞳が剣呑な光を帯びた。口許は笑みを浮かべているが、目つきは違う。それに気づいてはいるのだろうが、アラゴルンはまったく変わらない様子で話し続けた。
「今回限りで辞めるなら、見逃してやる。お前には借りがあるからな」
——借り?
見逃すと言ったことも引っかかったが、何より「借り」という表現が気になった。しかし、「勝手にしゃべるな」と言われている。話の流れは気に入らなかったが、ボロミアは唇を引き結んで耐えた。
「だが、この先も続けるなら、ここを引き払っても必ず捕らえる。お前のやってきたことがすべて明らかになれば、首を吊るされるのは確実だ。どうする?」
「そりゃ、おやさしい話で」
亭主は皮肉げに笑った。
「どうする?」
アラゴルンが返事を催促する。亭主は真意を探るようにアラゴルンを眺めていたが、やがて、口を開いた。
「答える前にひとつ訊きたいんですがね」
「なんだ?」
「なぜ、そんなことを言いに来なすった?」
「なぜとは?」
アラゴルンが首を傾げる。
「なぜって、おかしいじゃないですかい。あんたは夜明けの仕事を邪魔したと言いなすった」
「ああ」
「昔どおりなら、あんたたちはこっちの“商品”を解き放ってそれで終わりだった。違いますかい?」
“商品”というのは、当時、彼が運んでいた“人”なのだろう。
「そうだな」
「だが、今回はどうやらそうじゃないらしい。連中を捕らえた。そうでしょう?」
「そうだ」
「つまり、あんたは官憲に情報を流した。なのに、わしには逃げる話を持ってきた。どうしてですかい?」
なるほど、それが疑問かと、ボロミアは亭主を見た。犯罪者といえど、それなりの才覚がなければ生き残れない。用心深さは人一倍だろう。そういった抜け目なさを感じた。
「言っただろう。お前には借りがあると」
アラゴルンがまた「借り」と口にした。余程、大きな借りがあるということか。仕事を邪魔しただけの“知り合い”ではなかったらしい。一人でここへ来ようとしたのは、それをボロミアに知られたくなかったからか。二人はいったいどんな知り合い”だったのか。ボロミアは複雑な気分で主を眺めた。
「——あんたには呆れますねぇ」
亭主が苦笑交じりに息を吐いた。
「じゃあ、足は洗うんだな」
アラゴルンが念押すように言う。しかし、亭主はそれに答えず、とんでもない提案をした。
「あんた、前にも言ったが、わしと組む気はないかい?」
「お前な……」
アラゴルンが呆れた声を出す。
「わたしは『足を洗え』と言ったんだぞ」
「そうだが、あんたをただの野伏で終わらせるのは惜しいと思うんでね」
「だからって、犯罪の片棒を担ぐ気はない」
「何も犯罪の片棒を担ぐばかりが仕事じゃありませんや。あんたと一緒なら、まともな仕事でも一山稼げる」
悪い話じゃない、と亭主は身を乗り出し、アラゴルンの手をつかもうとした。それをサッと躱して、アラゴルンは言った。
「それなら、ほかを当たってくれ。あいにく、今はただの野伏じゃないんだ。自由に動けない」
「ふぅん……なるほど。つまり、官職に就いたってわけですか。つまらん人ですなぁ」
亭主は口を曲げ、言葉どおりつまらなさそうに言った。蔑みを含んだ響きに、ボロミアは拳を握り締めた。その気配を感じ取ったのか、ちらりとアラゴルンが振り向き、目配せをした。相変わらず、自分のことは何を言われても平気な人だ。だが——、
「仕方ない。ほかに成り手がいなかったしな」
亭主に向き直り、肩を竦めて言われた彼の台詞は、ボロミアを落胆させるものだった。たとえ、この場限りの言葉だとわかっていても……。
「そうかい……」
亭主は気のなさそうな返事をしたが、直後にその目がきらりと光った。
「しかし、官職に就いた身で、わしに逃げ道を用意していていいんですかい? 上役にバレたらまずいんじゃありませんかね」
からかいの言葉に、アラゴルンがにやりと笑い返す。
「そんな心配は要らない。わたしに上役はいないからな」
「冗談言っちゃあいけませんや。上役のいない宮仕えなんてありませんぜ」
亭主が声を立てて笑った。それに対し、アラゴルンは軽く首を傾げ、「あるさ」と言った。
「ひとつだけ、国王という職がな」
それをここで言うのかと、ボロミアは仰天したが、亭主の驚愕ぶりはその比ではなかった。
「こく……おう?」
先程までニヤニヤと笑っていた男の目が、真ん丸に見開かれた。
「……えれっ……さーる? あんたが?」
掠れた声が主の名を呼ぶ。アラゴルンが頷いた。
「信じるか否かはそっちの勝手だが、今のゴンドールの王はわたしだ」
「そう言えば……、エレスサール王は北方の野伏の出身だと……」
男はぶつぶつと口の中で呟いていたが、やがて大仰に手を広げて笑った。
「こいつぁ、驚いた」
まじまじとアラゴルンを見つめる。
「まさか、あんたがねぇ……。すると、そっちの人は護衛ですかい」
「まあ、そんなところだ。一人歩きをさせてもらえなくてね」
アラゴルンは肩をすぼめた。しばしば城を抜け出しているくせに、どの口が言うかと、ボロミアは胸の内で唸った。
「あんたに護衛が必要とは思わねぇが……まあ、王様ともなりゃ、一人でふらふら歩けませんやね」
物わかりのいいことを言い、亭主は笑った。その様子を見て、ボロミアは思った。この男はアラゴルンに対し、ある種の敬意を抱いているのだと。一緒に仕事をしないかと誘ったのも、腕の立つ野伏だから、というだけではなかったのかもしれない。
「こりゃ、足を洗うしかない」
「承知してくれるか」
「王様に睨まれちゃあ、仕方ありませんや。ここを引き払いやしょう」
あっさりと亭主は言った。
「そうしてくれるか。礼を言う」
男は鼻を鳴らすと、「こっちは礼を言わないぜ」とうそぶいて立ち上がった。
「そうと決まったらさっそく店じまいをしなきゃあ。ほら、さっさと帰ってくんなせぇ」
あっという間にボロミアたちは外へ追い出された。宿屋に入ったとき静かだった街は、今やすっかり目覚めており、通りには人の姿も見えた。公館に向かって歩きながら、ボロミアは訊いた。
「アラゴルン。彼に『借りがある』と言っていたが、いったいどんな借りなのだ? 話の様子では、彼の仕事を邪魔しただけの間柄ではなさそうだったが?」
「助けられたことがある」
さらりと言われた答えにボロミアは目を剥いた。
「彼にか?」
「ああ。話すと長くなるが……、簡単に言えば、崖沿いの道で足を滑らせ、落ちそうになっていたところを引き上げられた——そんなところだ」
アラゴルンは軽い調子で言ったが、もし、そこであの男が助けなかったら、ゴンドールは王の帰還を永遠にのぞめなかったかもしれない。ボロミアはぞっとし、さっき別れた亭主に感謝の念を抱きそうになった。
「それにしても……、彼はなぜ、自分たちの邪魔をしていたあなたを助けたのだ?」
「さあな。彼の言葉を借りれば『見殺しにするには惜しい』と、そういうことらしいが……」
気まぐれを起こしただけじゃないのか、と主は首を傾げて笑った。自身の価値に無頓着な彼は本当にそう思っているらしい。だが、ボロミアには助けた男の気持ちがわかった。あの男は本当に惜しいと思ったのだろう。
「しかし、本当に“知り合い”だったとはな……」
最初に話を聞いたときは、せいぜい顔を知っている程度なのかと思っていた。
「ひょっとして、海賊や山賊の頭とも知り合いではないのか?」
からかうつもりで言ったのだが——、
「現役は知らないが、前職がそうだったのは知っている」
返ってきた言葉に絶句し、足が止まった。
「おい……」
「……軽蔑するか?」
フードの下で青灰色の瞳が僅かに揺れた。
「まさか——」
まったく、この主には驚かされる。だが、それが好ましい。ボロミアは笑った。
「頼もしい限りだ」
青灰色の目がうれしそうに細められる。そのやわらかな笑みが愛おしかった。
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