再生[1][2][3][4][5]

再生[5]
午後の陽射しを浴びながら、ボロミアはオスギリアスの街へ入った。公館の厩へ馬を預け、アラゴルンから聞いた宿屋のある区画へ向かう。頭上には澄んだ青空が広がり、それは対岸にそびえる山並みの上まで広がっていた。
——わたしを止めておいて、自分が行くのか。
澄んだ空の色に主の恨みがましい瞳を思い出す。常は彼に睨まれると弱いボロミアだが、乱れた黒髪を肩にこぼし、寝そべった格好では逆効果でしかなかった。しどけない姿に煽られ、起床の刻限が迫る中、つい羽目を外してしまった。
おかげで王のハルロンド行きは延期となり、彼の不機嫌さはいや増して、ボロミアは半ば追い出されるように執務室を退出した。後になって無理を強いたことを申し訳なく思うが、そのときは抑えが効かない。自分自身のことなのにままならない。やっかいなものだ。
——帰る頃には少しは機嫌が直っているだろうか。
顔を背けた主の姿を淋しく思い出しながら、ボロミアは目印だと教えられた馬具を扱う店が建つ角で道を折れた。
小路を歩いていくと、しばらくして舵を刻んだ看板が目に入った。あの男、出自が海賊だけあって、船に関わる物に愛着があるのかもしれない。以前は錨だったと思いながら、ボロミアは宿屋の扉を開けた。
「いらっしゃいまし」
カウンターの中で振り返った男の顔は、確かに記憶にあった。ボロミアがフードの端を持ち上げると、彼も憶えていたのだろう、暗灰色の瞳に驚愕の光が走るのが見て取れた。けれど、それも一瞬のことで——、
「旦那。久しぶりですな」
調子良く話しかけてきたのはさすがだった。
「すぐに部屋へご案内しますよ」
盆に水差しを乗せて、カウンターを出てくる。
「別に部屋は……」
泊まるつもりはないと言いかけると、亭主は軽く目配せして囁いた。
「合わせてくださいよ。旦那は目立ち過ぎる」
そう言われてしまっては仕方がない。ボロミアは黙って頷き、案内されるままに階段を上がった。
「よくここがわかりましたね」
二階の突き当たりの部屋に入りながら、亭主が言った。
「足を洗ったのではなかったか?」
マントを脱ぎながらボロミアは訊いた。
「洗いましたよ」
「わたしの姿が目立つと困るようだったが……」
犯罪に係わりがなければ、“非番の役人”に見える男がいても構わないだろう——そう思ったのだが、とんでもないというように亭主は首を振った。
「旦那のようにいかにも官憲って感じの人がいちゃあ、人が近寄らなくなるんですよ。身に覚えがなくったって、取り締まる者は避けたいのが人の情でさぁ」
「そんなものか……」
そういえばミナス・ティリスでも、兵士とわかる集団のテーブルはどことなく遠巻きにされている。嫌われているのではなく、敬遠されているのだろうが……。少々もの淋しいものを感じた。
「何か召し上がりますかい?」
寝台脇のテーブルに水差しと杯を置いた亭主が振り返った。
「そうだな。昼飯がまだだ。エールと……あとは適当に見繕ってくれ」
「すぐお持ちします」
盆を小脇に抱え、男は出ていった。すっかり宿屋の亭主だ。なんとなく拍子抜けした気分になったが、それでも、しっかり宿を切り盛りしていたと主に報告できるなら、あの男の変化は良いことなのだろう。きっと彼は喜ぶに違いない。窓から射し込む光に目を細め、ボロミアは愛しい主の名をそっと呟いた。
◆◇◆◇◆◇◆
「——で、ここにいらした用はなんですかい?」
仔羊のローストをたいらげたボロミアの向かいで、白身魚とじゃが芋のフライをつまんでいた亭主が言った。
「特に用があったわけではないが……、お前が戻ってきたと聞いて、陛下が様子を見に行きたいと——」
ボロミアもフライに手を伸ばし、エールを口にした。
「それで、旦那が代理で? わざわざここまで?」
暗灰色の目が見開かれる。
「まあ、そうだ」
「冗談……じゃあ、なさそうですねぇ」
「ああ」
「いやぁ、驚いた。それだけのことで、下の者を派遣できるんですかい。さすがですなぁ」
亭主が大仰に両手を広げた。感心しているというより、王の権威を揶揄する響きを感じ取り、ボロミアは反射的にムッとした。
「別に命じられたわけではない」
「じゃあ、旦那の独断ですかい?」
エールのジョッキ越しに、暗灰色の瞳がおもしろそうにくるりと動いた。
「いや、ここに来ることはお断りしてきた」
断った相手がシーツをかぶって拗ねていたことは伏せておく。
「なら、意を汲んだってことで、命じたのと同じじゃないですかい?」
「違う。陛下はほかの者をここへ寄越すつもりなどなかった。あの方はご自分で来ようとしたのだ」
「へ?」
亭主の口がぽかんと開いた。かじりかけだったじゃが芋のフライがぽろりとテーブルに落ちる。
「……つまり、今、王様やってる人が、直接ここへ? わしが戻ってきた、それだけのことに?」
「そうだ。それも一人で、城を抜け出して出かけようとしていた」
「そいつぁ……」
亭主はテーブルに落としたじゃが芋を拾い、ぱくりと口に放り込んでから、おもむろに言った。
「旦那、苦労してますねぇ」
しみじみとした口調に、ボロミアは面食らった。
「別段、苦労とは思っていないが……」
「そうですかい? けど、相当手を焼かされている——違いますかい?」
にやりと亭主の口許がゆがむ。そういえば、この男は幾度か、アラゴルンの率いた野伏たちに仕事の邪魔をされた過去がある。彼の戦い方を知っているのだろう。
「……お前も手を焼いたクチか」
「散々、手こずらされましたよ」
亭主は笑った。
「手強かったか」
「そりゃもう……一度なんぞ、船を沈められましたからね」
そう恨み言を口にしながら、亭主の顔はどこか懐かしそうだった。
「しかし……、お前に助けられたことがあると仰せだったぞ。そんな相手をよく助けたな」
船を操る者にとって、その存在はかけがえのないものだと聞く。陸に暮らす者から見れば、船がなければ仕事ができないせいだろうと単純に思ってしまいがちだが、彼らにとって船は単なる商売道具ではなく、航海の苦楽を共にする相棒であり、家同然だという。そんな“家”を沈めた相手を、目の前の男は助けたのだ。
「なぜだ?」
「そりゃあ、惜しいと思いましたからね。あれだけの腕だ。取り込めれば……と考えますぜ」
「が、無理だったか」
「ええ。助けたことを恩に着せて言ってみたんですがね……礼は言われたものの、きっぱり断られましたよ。それで更に欲しくなったんですがね」
最後の一言は意外だった。
「断られたのにか?」
「旦那も武官ならわかるでしょう。すぐに変節する奴のほうが危ないって」
そういうことかとボロミアは頷いた。軍隊でも同じことが言える。敵に好条件を出されたら寝返るような兵士が内部にいては危険だ。
「それに、その恩も返してもらったんで、今更、貸し借りを言うつもりはありませんや」
亭主はさっぱりした顔で言うと、満足そうにエールを飲んだ。
「なるほどな。あの件での見逃しが恩返しだったわけか」
この男をアラゴルンと共に訪ねた朝のことを思い出した。我が主君は「借りがある」と言い、足を洗えば見逃してやると言った。あれが貸し借りの清算だったと、ボロミアはそう了解していた。だが——、
「そりゃ、違いますよ。旦那。貸し借りはとっくの昔にチャラになってます」
当の本人にきっぱり否定され、ボロミアは目を眇めた。
「どういうことだ?」
「わしがあの人を助けたのは本当。けど、あの人がわしを助けたこともあった、それだけのことですよ」
「陛下が助けた……?」
人買いの運び屋をしていた者を? ——瞠目するボロミアに、亭主は「へい」と頷いた。
「競合相手に絡まれたことがありやして、殺されそうになってたところを、追い払ってくれたんでさぁ」
「……陛下が、お前を助けるために剣を振るったのか?」
あの人のことだ。人買いであっても見殺しにできなかったのかもしれないが……。だったら、なぜ「借りがある」と言っていたのか……。わけがわからなくなったボロミアの前で、亭主は「まさか」と笑った。
「そんなこたぁ、いくらあの人がお人好しでもしませんや。ただね、矢が飛んできたんですよ。相手に刺さりはしませんでしたが、足下に二つ三つ刺されば隙は生じるってもんで……」
それで相手に隙ができて逃げられた——そういうことらしい。
「その矢に見覚えがあったと、まあ、そういうわけでさ」
「では、陛下の姿は見ていないのか」
矢が同じだったからといって、アラゴルンが射手だったとは断定できない。正規兵でも、敵が射た矢を回収して使うことはある。アラゴルンの矢を拾った人買いの仲間が射た可能性もあるのだ。
「姿は見てませんがね、わしはあの人だと信じてますよ。その前の日に、崖にぶら下がってたあの人を引き上げたんですから」
「そうか……」
そういういきさつなら、アラゴルンが射手だった可能性は高くなる。
「しかし、それで貸し借りが清算済みだったなら、なぜ、あのときまだ『借りがある』と……」
独り言のような呟きに、含蓄のある声が重なった。
「そのわけは、旦那なら察しが付くんじゃないですか」
亭主がいたずらっぽく片目を瞑る。
「……そうだな」
ボロミアは静かに目を伏せた。わかる気がした。彼は油断ならない人物だが、お人好しだ。
「それで、これからお前の第二の人生がはじまるわけか」
「旦那、第一も第二もありませんや。人生は一度きり、命はひとつですぜ」
鋭い切り返しに、ボロミアは薄く笑った。
「わたしは二度目だ」
残っていたエールを飲み干し、ふっと息を吐き出す。
「一度、陛下に看取っていただいている」
「ほう……」
亭主が驚いたように目を見開いた。暗灰色の瞳が興味深い光を放つ。だが、彼はそのことには何も触れずに立ち上がった。
「旦那。新しいエールをお持ちしましょう」
にっと唇が上がる。
「旦那の二度目の人生を祝って」
ボロミアも笑みを返した。
「それなら亭主の新しい門出も祝おう。第二の人生ではなくても、再出発には変わりないだろう」
「ま、そうとも言えますな」
楽しげな笑みを残し、亭主は空いたジョッキを盆に乗せ、部屋を出ていった。足音が遠ざかっていく。ボロミアは改めて部屋を見まわした。窓の外に補修作業の足場を組まれた塔が見える。席を立ち、窓を開けると、少し冷たい風が吹き込んできた。
この街も再出発した。人も物も受けた傷を消すことはできない。治すこと、修復することはできても、生まれ直すことはできない。けれど再スタートを切ることはできる。自分も、あの亭主も、この街も、そしてこの国も——
再び生きるのだ。
——かの人の治世の下で。
美しく晴れ渡る空に冠を戴いた麗しい人の姿が浮かんだ。
END

[4]
長い話にお付き合いいただきありがとうございます。お疲れさまでした。

4万打超記念リクエストの2つ目「お説教モードとラブラブモード、両方入ったボロアラ。戦後の復興期に二人でお仕事したり城外に出かけてたりする設定」をお送りしました。

長いわりにラブラブさが乏しくて申し訳ありません。ここの管理人が定義するラブラブはこのレベルです(^^;