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棘[2]
低い卓の上で、玻璃で覆われた燭のやわらかな灯りが揺れていた。毛足の長い敷物が床を覆い、脚の低い布張りのソファが卓の灯りに照らされている。
そこに腰を下ろしたボロミアに、たおやかな女が葡萄酒を注いだ玻璃の杯を差し出した。濃紅色の液体に満たされた杯から馥郁とした香りが漂う。ボロミアが香りを確かめるように顔の前で杯をかざすと、女はやさしげな顔で目を細めた。
女の衣装も葡萄酒の色に似ていた。濃い紅色の布地は銀糸で文様が刺してある。袖口や裾に白いレースをあしらったドレスは貴族のようだが、襟元が大きく開けられ、纏う身のラインが浮き出るようなつくりは花街のそれだった。
ボロミアはそんな女から目を反らし、受け取った杯を傾けた。口の中に濃厚でスパイシー、それでいてまろやかな味が広がる。
——良い酒だ。
だが、どうにもこの状況を楽しめない。そんなボロミアの心中などお構いなしに、たおやめは腕が触れあうほどの距離に腰を下ろした。その白い手がボロミアの膝に置かれる。
ここが娼館で、彼女が娼妓であることを考えれば、それはごく自然な流れだった。男なら誰もがうらやむ状況だが、ボロミアの背は冷や汗をかいていた。
——なぜ、こんなことに……。
二人の将に誘われて、彼らが主催する宴へ顔を出した。そこまではよかった。だが、その後、付き合った先が娼館の並ぶ区画だった。頃合いを見て逃げ出そうとしたボロミアだったが、将軍二人が上官を逃がすはずもなかった。両脇を固めて妓楼へ連れ込まれ、見世で一、二を争う売れっ妓を敵娼(あいかた)にあてがわれて今に至っている。
あてがわれた娼妓は確かにいい女だった。ほっそりとした身体つきながら、胸元はふくよか、それでいて腰周りは締まっている。ハリのある肌は抜けるように白く、結われた黒髪も艶やかだ。やさしげな顔立ちに、ふっくらと柔らかそうな唇。晴れた日の湖面のような水色の瞳は憂い含みの思わせぶりな雰囲気があり、なるほど、世の男連中がせっせと通い詰めるのも無理はない。
……などと、眺めて感心している場合ではない。差し当たっての問題は、いかにしてここから抜け出すかだ。女に食指が動かぬわけではないが、黒髪で水色の瞳という、かの人を思い出させる色彩を纏った相手では、今夜はとてもそんな気になれない。忘れようとしていた苛立ちがよみがえってくる。
しかし、この場を抜け出すと言っても、どうあしらえばいいか、上手い口実が見つからない。こういうところの女は概して気位が高い。登楼した客が何もせずに帰りました……では莫迦にされたと怒り出しかねない。下手をすると騒ぎになる。それは避けたかった。
「怖いお顔をなさってますね」
女のやさしい声がかかった。
「お顔の色も優れないようですわ。お加減でも?」
「い、いや……」
「もうお休みになります?」
甘い囁きとともに、良い香りを放つやわらかな身がしなだれかかってきた。その瞬間、ボロミアは身を引いていた。
「あ……」
とっさのこととはいえ、ボロミアは自分の反応に愕然とした。女は目を見張ったが、さすがというか、すぐに微笑みを浮かべてみせた。
「わたくしがお好みでなければ、代わりを呼びましょうか」
「い、いや、そういうことではないのだ。そ、その……」
こうなっては仕方ない。その気もないのに上がったことを詫びて、早々に退散しよう。
「すまん!」
ボロミアはガバッと頭を下げた。
「元々上がるつもりはなかったのだ。ただ断りきれなくてだな、その……本当にすまん」
しばし、部屋の中に沈黙が落ち、続いて楽しげな声が響いた。
「総大将だとおっしゃるから、どんな怖い方かと思っていましたけど、おやさしいんですのね」
女はころころと笑った。
「謝っていただくことなんてありませんわ。お顔をお上げくださいな。大将閣下に頭を下げさせたなんて知れたら、わたくし、店の者や兵士の方々に叱られてしまいます」
女は笑いをおさめ、ボロミアから少し身を離すと、いたずらげな上目遣いで窺うように訊いた。
「部下の方々に付き合っていらっしゃいましたの?」
「まあ、そんなところだ」
ボロミアは息を吐いた。
「白の塔の大将閣下に決まったお方はない——というお話を耳にしてますけど、お心に決めた方がいらっしゃるのではありません?」
売れっ妓だけあって勘が鋭いというべきか、ドキリとすることを訊いた。
「いや、まあ、その……」
「やっぱり」
返事になっていないようなボロミアの言葉だったが、女は何を勝手に解釈したのか楽しげに笑んで頷いた。
「ご一緒にはなりませんの?」
「その……事情があってだな……」
「あら。大将閣下でも、好いた方とご一緒になれない事情がおありなんですの」
女が意外そうな顔をする。事情は大ありだが、それを口にすることは絶対にできない。ボロミアはさっきとは違う意味で冷や汗を流し、杯を置いた。
「まあ……そんなところだ。——とにかく、そういうわけなので帰らせてもらう。悪く思わないでくれ」
なんとか辞去の言葉を口にし、腰を浮かす。それを留めるように女が口を開いた。
「妓楼へ上がったなどと知れたら、妬かれますの?」
「いや、そんなことはないが……」
悲しいかな、かの人はまったく気にしないだろう。
「でしたら、お泊まりになりません? お酒のお相手だけでも……お酒がお嫌でしたら、単にお休みいただくだけで構いませんわ」
「いや……」
ボロミアは首を振り、立ち上がった。
「すまぬが、帰らせてもらう」
今度は女も引き止めなかった。その代わりのように、からかいの言葉がかかる。
「お相手の方にずいぶん惚れ込んでおいでですのね」
部屋を出ようとしたボロミアの足が止まった。振り返れば、女は年若い弟を相手にするような目でボロミアを見ていた。
「妓楼でお遊びになる隙ひとつ、お心にないんですもの。閣下のお相手の方はお幸せですわ」
「……そうだろうか」
我知らず、呟きが漏れていた。耳の奥で冷えた声がよみがえる。
——ボロミア、これは命令だ。
あのとき、かの人はボロミアのことなど……、
——だが、嫌なら無理にとは言わない。わたしが行く。
どうでも良いもののように言った。 ボロミアがどう思っていようと、どんな態度で接しようと、結局、関係ないのではないか……? そう疑いたくなるほど、かの人の態度は冷徹だった。事実、彼はどうでも良かったのだ、ボロミアの返答など……。
「わたしがどう思おうと関係なさそうだがな……」
気づけば自嘲の言葉を吐いていた。
「あら、そのようなこと……」
女はボロミアの嘲りをやんわりと否定するように言った。
「お幸せに決まってますわ。それだけ想いを寄せられて、嬉しくないわけありませんもの」
その笑みは単なる世辞とは思えぬ温かさがあった。
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どこがボロアラやねん、て感じですな。すみませんm(_ _)m
でも書いてみたかったのです。イイ女を前にオタオタするボロを。
血筋、地位は申し分なし、ルックスも性格も悪くないとなれば、本人にその気が無くてももてたでしょう。
けど女性のあしらいは苦手そう、というのが拙作のイメージです。