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棘[3]
暗い道を館へと急ぐ。冷たい風が通り過ぎ、ボロミアはマントの襟を押さえた。既に夜更けということもあり、街灯りは乏しく、道を行き交う人の姿もない。
——こんなことなら従者を帰すのではなかったな。
ボロミアは胸の内で独りごちた。将たちが主催する宴は夜を徹することも珍しくない。それを考えて従者を帰したのだが、こうして夜道を一人歩きする事態になってみると早計だったかと思う。
別段、夜道を恐れているわけではない。ただ、たかだか環状区の一つ二つを上がるだけでも、一人無言で歩くのはうら寂しい気持ちになる。声をかける相手でもいれば気が紛れる……と、そう思った己をボロミアは嗤った。
——夜道を歩くのに、気を紛らわす何が必要なのだ。
否、本当はわかっていた。こうして一人でいると、緩やかにうねる黒髪と青灰色の瞳の持ち主を思い出してしまう。それを紛らわしたいのだと——。
「くそ……」
己の裡を見つめる思考はぐるりと螺旋を描き、心の襞を削りながら墜ちていく。内へこもる不毛な思い。それがわかっていても止まらない。底なし沼に嵌ったが如く、ズブズブと沈んでいく。その不快さが更に厭なことを思い出させた。

——なぜ、あなたが、ここに……?
——なぜ? 苦戦している味方に、援軍を率いてきた。それだけだ。

ひと月前、ついに件(くだん)の賊がハラドの警備隊の基地へ戻るところを押さえた。その現場に、いるはずのない人がいた。

——野伏の姿でか?
野営地の天幕で、予定外に主君にまみえるなど良いことではない。ボロミアは黒衣を睨みつけた。
——姿などどうでもいいだろう。
——とぼけるなっ!
しれっとした返事にボロミアは怒鳴った。
——最初からここへ来るつもりだったのだろう? 最初から、わたしに命じたときから……、たとえ、わたしが命を受諾しようと拒もうと関係なく、あなたは自身の手で向こうの警備隊の基地——警備隊の皮をかぶった賊のアジトを叩くつもりだった。そうでなければ、彼ら北方の野伏が協力するはずもなかったろうからな。
基地の位置特定も、その見張りも、野伏の助けが物を言った。それらの協力はボロミアの命を受けてのことだと思っていた。だが違った。それらはすべて王——彼ら一族の長の命で為されたことだったのだ。
——それで何か不都合があったか?
王は平然と問い返した。嫌みなほどの無表情さで。
——ボロミア。今は言い争っているときではない。アジトは叩いたが、首領を逃がした。早々に捕らえねばやっかいなことになる。説教と苦情なら、ミナス・ティリスへ帰ってからまとめて聞く。今は捜索に全力を注いでくれ。
憎々しいほど落ち着いた声で指示が出された。ボロミアの肩と拳がわなわなと震えた。それを懸命に抑え、呼吸を整えてようやく口を開いた。
——かしこまりました……陛下。
拝命の返答はしたが、怒りはおさまらない。顔を上げたボロミアは、美しい青灰色の瞳を皮肉たっぷりに見返した。
——だが、よろしいのですかな。信用ならないわたしにお命じになって。
——ボロミア、何を言う。
無表情だった主の顔に、僅かではあるが動揺の色が浮かんだ。
——わたしがあなたを信用していないわけないだろう。
——いいや、あなたは信用していない。
主の言葉をボロミアは否定した。
——此度の件ではっきりした。信じてらっしゃらないから、自らお出ましになった。信用してくださっていたなら、わたしに任せていただけたはずだ。
——ボロミア、それは違う。わたしはそういうつもりで……。
主の口から焦りの滲む声が発せられた。しかし、彼が何を言おうと今更だ。そんな繰り言めいた言い訳は聞きたくなかった。「もう良い」と発言を止めようとしたところ、
——失礼いたします。
天幕の入り口から声がかかった。
——そろそろお発ちになりませんと……。
野伏が一人、入り口に垂れた布を遠慮がちにめくって顔を出した。
——わかった。今行く。
主は“長”の顔になって野伏を振り返った。そのまま立ち去るかと思ったが、野伏の姿が消えた後、彼は“王”の顔でこちらを振り向いた。
——ボロミア。わたしはあんたを信頼していないわけじゃない。ただ、なんというか……。
言葉に詰まり俯いたのはどんな顔だったのか、それは引き上げられたフードの陰に隠れた。
——心配だった。それだけだ。
フードの下から低い声が聞こえた。
——勝手なことをしてすまなかった。後のことは頼む。
◆◇◆◇◆◇◆
ボロミアは鬱々とした気分で寝室の扉を開けた。サイドボードから火酒と杯を取り出す。冷えた夜道を歩いたせいもあって、これまでに取り入れた酒はすっかり醒めていた。部屋は暖炉の火で暖められていたが、身の内から温めるには酒精が効く。ボロミアは琥珀色の液体を煽った。ふうっと息を吐き、もう一杯注ごうとしたところで、
「わたしにもくれないか?」
暗闇から声がかかった。反射的に剣の柄をつかんで振り返る。
「おっと……、抜かないでくれ。無断侵入したが、怪しい者じゃない」
サイドボードに置かれた燭台の炎が照らす寝台に、ほっそりとした影が起き上がった。
「なぜ、ここに……」
寝台を下り、ゆっくりと近づいてくる細身の人物をボロミアは睨みつける。灯りの届く場所に出てきたのは、マントを取り、髪を解いた以外は宴の礼装のままの王だった。もっとも、せっかくの礼装も今は見るも無惨に着崩れていた。
臙脂色のコートの前ははだけ、絹特有の艶を放つ黒いシャツが見えている。そのシャツも襟の紐が緩められ、胸元が露わになっている有り様だった。しかし、着ている本人は己のだらしのない格好などまったく頓着する気配もなく、小さく首を傾けた。
「言っただろう? 説教と苦情はミナス・ティリスに帰ってから聞くと」
約束どおり聞きに来たと、王は燭の炎を映した淡い色の目を細めた。
——ふざけるなっ!
そう叫びたいのをボロミアはぐっと堪えた。他の者が彼と同じことを言ったなら、火に油を注ぎに来たかと怒鳴りつけていただろう。だが、小首を傾げた先程の様子を目にすれば、彼の訪問の目的が言葉どおりであり、他に含むものがないことは明らかだった。ゴンドールの王は誠に義理堅い。
「……逆効果だ」
ボロミアはふいと視線を逸らし、呻くように呟いた。
「逆効果?」
訝しげな声が返ってきた。
「ああ、逆効果だ」
ボロミアは顔を上げた。
「今のわたしは、とてもじゃないが冷静に話ができる心境じゃない」
こんなことはいちいち口にしなくても、ボロミアの態度で一目瞭然のはずだ。自分が彼と口を利いたのは、式典でどうしても必要な言葉だけ。宴ではまったく口を利かなかった。何より、その後、彼の部屋を訪ねなかった時点で、顔を合わせるのを避けたとわかるはずだ。彼ほど聡い人間がなぜ気づかないのか、ボロミアは歯噛みした。
「……落ち着いて話せるようになるまで時間が要る」
「……そうか。すまなかった」
王は沈んだ声で頷いた。少しはボロミアの気持ちが通じたのかと思ったが、
「どうやら来てはまずかったようだな。邪魔をした」
彼はとひらりと手を振るや、さっと踵を返した。大股で露台へ歩き出す。
「って、おい……」
ボロミアは立ち去ろうとする人の腕をとっさにつかんだ。
「なんだ?」
「どこへ行く」
「今日のところは帰るよ。時間を置いたほうがいいんだろ?」
あっけらかんと言われて、ボロミアはがくりと項垂れた。確かに「時間が要る」と言ったが、帰宅の待ち伏せまでしておいてこうあっさり引き下がられると、いったい何しに来たのかと思う。
自分も大概“心の機微”なんてものには疎いが、それでも目の前の想い人に対しては些細なことで感情が揺らぐ。なのに、彼の口調からは、そういったものがまったく感じられない。それがまた癪に障った。
これでは本当に、約束だから話を聞きに来ただけではないか。自分たち二人の間には、それ以上の意味を持ちうる関係があるというのに——。
ボロミアはアラゴルンの腕をつかんだ手に力を込めた。
「ここまで来ておいて『帰る』はないだろう」
つかんだ腕を引きながら非難する。すると、青い目が戸惑ったように瞬いた。
「落ち着くのに時間が要るんだろう? だったら帰ったほうがいいと思うんだが……」
そう言いながら、どうしたものかというように首を傾げる。
「どっちなんだ? 帰ったほうがいいのか、居たほうがいいのか……」
ボロミアは怒りを感じるより先に脱力しそうになった。なぜ、こんな言葉の上面を撫でるような返答になるのだ。この男は自分が抱えるような“揺らぎ”とは無縁なのだろうか。しかし、彼が悩みや葛藤、躊躇といった心の揺れと、まったく無縁ではないことを自分は知っている。となると……、
——わたしに対しては悩むこともないと、そういうことか?
それは、どうでもいいということと同義になる。ボロミアはギッとアラゴルンを睨みつけた。アラゴルンの顔が僅かにゆがむ。その眇められた青い目が癇に障った。
そんな目で見るな!——そう叫ぼうとした矢先、静かな声が落ちた。
「ボロミア。悪いが、手を放してくれないか。逃げないから」
言われて初めて、自分がものすごい力で彼の腕を握り締めていることに気づいた。彼が顔を顰めたのは痛みのためだったらしい。ボロミアは慌てて手を放した。
「す、すまん。つい……」
いいさ、というようにアラゴルンは小さく笑った。軽く腕をさすりながら、ボロミアに向き直る。
「あんたの機嫌が直ってないことはわかっていた。何しろ、帰ってきてから目を合わせようともしないんだからな」
緩やかにうねる黒髪の下、少し淋しげな微笑が浮かんだ。
「あんたが『時間が要る』と言ったように、少し時間を置こうと思っていた。あんたの気が落ち着くまで。だが、総大将が四六時中ここに——」
と、アラゴルンの指がボロミアの眉間を指した。
「縦皺を刻んでいると、周囲が放っておかないようだ。宴で諸侯の幾人かから遠まわしに訊かれたよ。凱旋祝いだというのに、ボロミア卿はいかがしたのかと。しかも、あんたがわたしを避けるようにしているから、何かあったのかと勘ぐる者もいた」
軽く息を吐き、アラゴルンは小さく肩を竦めた。
「あんたとわたしとの間がぎくしゃくしたままでは、国政の場がざわつく。それで早急に手を打っておこうと思ってここに来た。とは言っても、事がどう運ぶかはあんたの気分次第だ。感情は他者がどうこうできるものじゃない。あんたの腹立ちの理由を聞けば少しは落ち着いてくれるかと思ったが、そうでもないようだし……」
どうすればいいかお手上げだと、アラゴルンは両手を広げた。なるほど、彼がここに来たのは“約束だから”だけではないようだ。しかし、今の話が彼の本音なら、国政に影響が出なかったら、ボロミアの態度がどうであろうと構わなかった——とも受け取れる。それに「腹立ちの理由を聞けば」というのは……。
「それは……つまり、わたしがなぜ腹を立てているかわからないと、そういうことか?」
「さあ……どうだろうな。わかっているつもりだが、自信はない」
「何?」
本当に彼はわかっていないのか、ボロミアの頬はひくりと痙攣したが、
「わたしがあんたに作戦を任せず、勝手な行動をしたせいだと思っているが……合っているか?」
言われたことはほぼ合っていた。ボロミアは無言で頷く。
「それで、どうすれば大将閣下の機嫌が直るかだが……」
アラゴルンが一歩踏み出し、その手がボロミアの頬に伸びた。彼の顔が近づく。鼻が触れそうな距離になったとき、青灰色の瞳がまぶたの下に隠れた。唇に温かなものが触れる。羽毛のような軽い感触が唇をかすめ、すっと離れていった。
「あまり効果はなさそうだな」
しげしげとボロミアを眺め、アラゴルンは判定を下すように言った。
「拗ねた子供を宥めるには、キスして抱き締めてやるのがいいと聞いたんだが……」
誰が拗ねた子供だ、そもそもそれは誰の受け売りだ——と、言いたいことはあったが、やや俯きがちで上目遣いになった青い瞳の至近攻撃は、ボロミアの舌の動きを止めるだけの威力があった。苦労を重ねてきた彼の両手がボロミアの頬を包む。
「大将殿。機嫌を直す方法に希望はあるか?」
ハスキーな囁きに喉がごくりと鳴る。
「……ああ、ある」
ボロミアの腕はアラゴルンの腰にまわっていた。
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ようやくボロアラらしくなってきたでしょうか。