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棘[1]
夜の帳が下り、景色が闇に沈む中、ミンドルルインの東端に赤々とした炎が灯った。岩盤を削りだして築かれた城塞、守護の塔に焚かれる篝火だ。今夜はその篝火がいつもより多い。また、城の窓から覗く灯火も普段より明るく見えた。
陽が落ちれば官吏の大半は退出し、人気がなくなるのが城の日常だが、今宵は多くの燭が取り付けられた灯火の下、着飾った人々のさざめき笑う姿があった。広間には飲み物と料理の並んだテーブルが置かれ、管弦の楽が流れている。
「本当にいつ見ても立派な方ね」
「ええ。堂々としていらっしゃって——」
「礼装姿がまた素敵ですわ」
貴婦人たちが扇の陰から宴の主役を目で追い、艶やかな笑みを浮かべている。彼女たちの視線を一身に集めているのは、礼装に身を包んだ白の塔の大将ボロミア卿。
半年程前からウンバール周辺で盗賊が頻繁に現れるようになった。当初は現地の兵力で対処していたが、一向に事態の収集がつかず、事が長引くことを恐れた国王エレスサールは王都から戦力を送ることを決定。勅命を受けた白の塔の大将ボロミアが三ヶ月前、都を発った。
ボロミア卿は見事に賊を討ちとり、数日前、ミナス・ティリスへ凱旋した。今夜の宴はその功績を讃え、祝うものだった。
「けれど、今夜はなんだかお顔が険しくていらっしゃるわね」
貴婦人の一人が呟いたとおり、総大将の顔に浮かんでいるのは凱旋に喜ぶ笑顔ではなく、眉間に縦皺の入った厳しい表情だった。
◆◇◆◇◆◇◆
宴の場から王が引き取ったところで、ボロミアも退出した。足早に城を出る。いつもなら王の部屋を訪ねるところだが、今夜はそんな気分になれなかった。
——ボロミア、これは命令だ。だが、嫌なら無理にとは言わない。わたしが行く。
都を離れる前、ボロミアを押し黙らせた言葉が耳の奥でよみがえる。命令には従うしかない。ボロミアは戦場へ赴いた。しかし、王に授けられた策は使わなかった。
——万策尽きたときの最後の手段に……。
そう言い訳して、授けられた策を封印した。ボロミアの心情に合わない手段なのはもちろんだったが、私情で判断したつもりはなかった。たとえ王命違反で処罰されようと、とても正規の兵が使える手段ではない。その判断は今でも変わらない。
——あのように卑劣な……。
ボロミアは唇を噛んだ。
——あちらの警備も賊として討伐すればいい。
王はあっさりと言ってのけた。ウンバール周辺を荒らしている賊にハラドの国境警備が一枚噛んでいるらしい——その話はボロミアも聞いていた。確証はないが、警備隊に追われた賊が決まってハラドへ逃げ込むことを考えれば、おそらく真実であろう。
だが、賊を討つのに、他国の領土へ踏み込み、証拠も無しにその国の兵士を捕らえることなどできない。おまけにハラドは今——腹の内はどうであれ——和平交渉の提案をしてきている。
——それは無茶だ。相手は和平を提案してきているのだぞ。
——その和平を壊そうとしているのはゴンドールではない。ハラドだ。
王は冷えた声で言った。
——向こうは、ゴンドール軍が警備隊に手を出せないことを見込んでやっている。これ以上、長引けば国境沿いの町は廃れる。
——だからと言って……!
反論しようとしたボロミアを硬い声が遮った。

——ボロミア、これは命令だ。だが、嫌なら無理にとは言わない。わたしが行く。

「……くそっ!」
ボロミアは第六環状区へ抜ける随道の壁に拳を叩きつけた。
「閣下……」
随従の者が恐る恐るといった態でこちらを窺う。ボロミアはそれに構うなと手を振った。不機嫌さは隠しようもないが、苛立ちを下の者にぶつけるほど愚かではないつもりだ。こんな夜は酒でも食らって早々に寝てしまうに限る。ボロミアは足を速めた。
「おや、閣下。主賓がもうお帰りですか?」
第六環状区へ出たところ、ふいに将の一人に声をかけられた。
「よろしいのですか? 陛下のほうは」
傍らから別の声がかかる。振り向けば、そこにも麾下の一人が立っていた。彼が「陛下のほうは」と訊いたのに、特に含みがないことはわかっている。こうした宴の後、ボロミアが私的にアラゴルンを訪ねることは麾下の間では常識になっていた。
ボロミアが無冠のアラゴルンと出会った“指輪棄却の旅”の経緯は今や広く知られており、身分を超えた親しい間柄と捉えられているため、二人で夜明かししても妙な邪推をする者もいない。
「ああ、陛下は……仕事が山積みでお忙しいらしい」
ボロミアは目を伏せ、低い声で答えた。
「さようでございますか」
将軍たちは特に不審な顔をすることもなく頷いた。それにホッとしたところ、二人連れの将軍はボロミアにある提案をした。
「ならば、閣下。我らとご一緒しませんか」
「卿らと?」
「はい。我ら、これから新たな祝いの席に出向くところでございますれば、閣下も是非」
ようするに、身内で凱旋を祝う場を設けているということなのだろう。城で開かれる宴に出席できる軍人は、ごく限られた上位の者だけだ。特に優れた功績を上げた者なら、上官のはからい次第で出席できることもあるが、城の宴なんて堅苦しい場は御免だと敬遠されることも珍しくない。そういう事情を汲んで、身内で宴席を設ける者は少なくない。
「閣下がおいでになれば、部下も大いに喜びます」
将軍が磊落に笑う。
「そうだな……」
普段なら断った……いや、宴を退出したその足で、そそくさと主の部屋を訪ねていた自分には、こんな誘いを受ける機会すらなかった。だが、今夜は帰って酒を食らって寝るだけである。それなら——、
「同席させてもらおう」
ボロミアは笑顔で頷いた。
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