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陽の彩り[4.白日]
第二環状区で立てこもり事件のあった翌日、白の塔の大将ボロミアは演習から帰還した。ファラミアは門をくぐった彼の姿を直に見ていないが、太陽の光を浴び、呼称どおり白く輝く都に劣らず、大将は眩しいほどの笑顔で入城したそうだ。
大将の上機嫌は城へ入ってからも変わらず、主君の下へ帰還の挨拶に向かう足取りは軽ろやかで、すれ違った官吏が「久しぶりにお戻りになってうれしいのだろう」と囁くほどの笑顔だったという。だが、その晴れやかな笑みは国王の執務室に入った瞬間から、暗雲が立ち込めることとなった。なぜなら——、
エレスサール王の唇の端に切り傷があり、頬には痣とかすり傷ができていたからである。
禁を破って街へ出かけ、事件に巻き込まれた——と聞いた途端、大将の眉間にくっきりと縦皺が入った。椅子を勧められても腰を下ろさず、緑の瞳に怒気を浮かべて主君を睨みつけた。
「わたしが戻るまで微行は控えると仰せになりませんでしたか」
ドスの利いた声が国王の前に落とされた。髪に隠れて見えないが、こめかみに青い筋が浮かんでいそうである。エレスサールが傷を負っていなければ、ボロミアの怒りもまだ抑えられただろうが……。傍らで聞いていたファラミアはそっと息を吐いた。
「……確かに言った」
観念したようにエレスサールが答えた。
「では、なぜお出かけになられた」
「なぜって、それは……」
出かけたくなったから——と、言いたげな顔でエレスサールは口を噤んだ。
「わたしは信じておりましたぞ。陛下は約束なさったことは守る方だ。だから安心しておりました。それが戻ってこれば、斯様な有り様——」
怒りを孕んだ勁い声が執務室に響く。怒鳴っているわけではないが、何万という兵へ聞かせる演説を可能にする将の声は迫力があった。
「我が陛下はいつからご自分のお言葉を違えるお人になられたのだ」
「……すまない」
ぽつり、とエレスサールの口から謝罪の言葉が漏れた。だが——、
「謝っていただきたいわけではない!」
雷鳴のごとき声が轟いた。長椅子の上でエレスサールがびくりと首をすぼめる。ファラミアは晴れ渡った窓の外をちらと見遣って、まさに青天の霹靂と、場にそぐわぬことを思った。
「いったい、陛下はご自身の立場を如何ようにお考えか」
「如何ようって……それは……」
エレスサールは気まずそうに言葉を途切らせたが、その顔には、うっかり行き倒れるわけにはいかない立場くらいのことはわかっている——と書いてあった。
——すれ違っているな。
ファラミアはひっそりと息をこぼした。
エレスサールは自身の安全や立場に頓着しないが、それでも伊達や酔狂で命を捨てるつもりはないと明言している。周囲の目にどう映ろうと、彼としては自分の命を祖末に扱っているつもりはないらしい。しかし、生命に危険が及ばない程度の傷には無頓着だ。その捉え方が自分やボロミア、周囲の者たちの見解とすれ違う。
彼に言わせると、多少の怪我ならば治るのだから問題ないだろう、となる。それはエレスサールが只の兵士や野伏だったならばの話だ。国王とはそういうものではない。傷はおろか、その身を危険に晒すことも避けねばならぬのだ。それなのに、彼は率先して災難の渦中に身を投じてしまう。昨夜もそうだった。
ボロミアが激しているのもそこだろう。微行を控える取り決めを反故にされたから、だけではない。身分に対し、エレスサールの自覚が乏しいためだ。
かの指輪棄却の旅に、ボロミアとエレスサール——当時はストライダーまたは真名のアラゴルンが彼の呼称だった——は同行していた。命がけの旅であり、仲間の間に強い絆が結ばれたのは想像に難くない。その中でも、ボロミアがエレスサールに対して抱いた想いは特に強かったようだ。
ゴンドールの民として、最初にエレスサールを“王”と呼んだのはボロミアだと聞いた。そのせいか、生還して後、改めて白の塔の大将を任ぜられた彼は、殊更「主君の身を守る」という意識が強く、エレスサールの病や傷に感情的になりやすい。今、目の前で繰り広げられているように——。
「陛下はご自分の立場をおわかりではないのだ」
厳しい声で演説が続く。エレスサールはと言えば、ちらちらと上目遣いで窺っているものの、身を縮めて静聴の構え——というか、宥めることを放棄した様子である。まあ、一席ぶてば怒りはそこそこ鎮まるだろうから、悪い選択ではないが……。
——あいにく、そんな時間はないのですよ。
何より、総大将が国王を延々叱りつけていた、なんて話が国政の場に広まってはよろしくない。
「——兄上」
ファラミアは静かに声をかけた。
「そろそろ会議が始まるのではありませんか」
演習の成果や問題点、ミナス・ティリスを留守にしていた間の連絡など、彼にも総大将の立場として外せない用が幾つもあるのだ。ここでいつまでも説教していられるほど、白の塔の大将も暇ではない。
「陛下をお諌めするのはよろしいですが、それでご自分の務めをおろそかにしては本末転倒ですよ」
「わかっている!」
主君を睨んでいた緑の瞳が、じろりとファラミアに向いた。
「こういうときでもお前は涼しい顔だな、ファラミア。そもそも今回の件は、陛下を取り逃がしたお前の手落ちではないか」
普段のボロミアなら口にしない言葉だった。彼は基本的にエレスサールの脱走では、脱走者本人以外を責めない。野伏の長を務めていた主君がその気になったら、この都に阻止できる者はいない。それをもっともよく知っている一人がボロミアだ。
——しかも、取り逃がしたとは……。
主君を罪人扱いである。頭に血が上ってしまっている証拠だ。もっとも、微行を黙認したのは確かなのだから、その点は紛れもない落ち度だ。
「申し訳ありません」
ファラミアは素直に詫びた。なんだかんだと言っても、彼は実の弟には甘い。怒りの度合いにもよるが、昔から素直に謝れば怒気を鎮めてくれる傾向があった。とりあえず気を落ち着かせてもらい、話はそれからと思ったが、我が身の行状で臣下が責を負うのを善しとしない主君が口を挟んだ。
「ボロミア、違う。ファラミアに落ち度はない。わたしが黙って勝手に抜け出したのだから……」
「黙らっしゃい!」
再び雷が落ちた。突き刺すような鋭い視線がエレスサールに向けられる。
「つまり、あなたはその姿勢を変える気はないのだな」
緑の瞳に酷薄な光が浮かんだ。
「あと一日でわたしが戻るとわかっていながら、抜け出したくなれば勝手に出ていく。臣下との取り決めなど莫迦らしくて守っていられぬ、というわけだ」
「そんなつもりは……」
「ないと言うなら、なぜ出かけた!」
敬語を忘れた怒号が響いた。
「それは……」
「どれだけ自重してくれと頼んでも、あなたは結局それだ」
「そんなことはない。これからは気をつけ……」
「もうよい!」
痛々しい叫び声が主君の言葉を遮った。
「あなたの『気をつける』は聞き飽きた」
「ボロミア……」
「守る気もないその場限りの言葉など、聞きたくない。わたしももう何も言わぬ」
エレスサールが愕然とした表情でボロミアを見つめる。ファラミアも信じられぬ気持ちで兄を見た。二人の視線を遮断するようにボロミアは身を翻した。
「好きになさるがいい」
吐き捨てるように言って扉へ向かう。
「兄上!」
ファラミアが呼び止めたが、ボロミアは振り返ることなく扉の向こうへ消えた。エレスサールが扉を凝視したまま固まっている。
「陛下、大丈夫ですか」
「……あ、ああ」
声をかけると、ハッとしたように振り向いた。
「すまないな。執政殿を巻きぞえにしてしまった」
彼は気を取り直したように笑ったが、顔は青ざめ、表情は引き攣っていた。
「わたしのことはいいのです。お忍びを黙認したのは事実ですから。それより、ボロミアの暴言のほうが問題です」
始めのほうは諌める態を為していたが、終わりのほうは紛れもない暴言だ。主君に対する言葉ではない。エレスサールに咎める気がないのは明らかだが、だからこそ、今のは不敬だと明言しておかねばならない。でないと、過ぎるくらいに寛容なこの王は、臣下のどんな言葉も許してしまいそうだ。事実、今、目の前で不思議そうに首を傾げている。
「暴言……?」
ファラミアが頷くと、心の広い主は苦笑した。
「確かに丁寧な言い方ではなかったが……仕方がない。非はわたしにある。彼の言うとおり、わたしに国王としての自覚が足りないのだろう。玉座を去れと言われなかっただけマシだと思うよ」
最後に呟かれた言葉に、ファラミアはぎょっとした。
「そのようなこと、わたしもボロミアも思っておりませんよ」
「けれど、自覚が足りないと思っているだろう?」
確かに自覚が足りない——と思っているが、それは王としての資質を指してではない。そちらはなんの問題もない。立場を考慮して欲しいだけである。
「わたしはゴンドールの王があなたであったことに感謝しておりますよ。ボロミアもきっと同じことを申し上げるはずです。ただ、もう少しご自身を大切になさって欲しい——それだけです」
「……自重を心がけるよ」
力無くエレスサールは笑った。
「ボロミアも落ち着いたら、冷静に話ができるでしょう。もう一度話し合ってください」
二人の話し合いは是が非でもしてもらわねばならない。王と総大将の間がぎくしゃくしていては、多方面に悪い影響が出る。
「わたしからも話をするように言いますから」
彼はわかったというふうに頷いたが、解せない表情で口を開いた。
「ファラミア」
「なんでしょう」
「この顔の傷、そんなに酷いか?」
——傷の軽い重いが問題ではないのだが……。
頬の痣に触れて首を傾げる主君の姿に、ファラミアは深い息を吐いた。
3.暁闇 | 5.残照
白日の下に曝された——のは、王の行状(笑)。
約束を反故にして出歩いたのは悪いと思っているけれど、大将が腹を立てている真の理由はわかっていない模様(鈍)。

ボロアラだとファが“いい人”に思えるなぁ(笑)。それでも、拙作では腹黒標準装備だけど(標準なのか……)。