陽の彩り[6.暁光]
エフェル・ドゥアスの稜線が明るく輝き、清々しい光が白の都を照らしていく。朝の訪れだ。街が目覚めていく様子を、ボロミアは国王の執務室の露台で眺めていた。東の山並みにかつての影はない。
——こんな風景を見られる日が来ようとは……。
数年前までは想像できなかった——と、ボロミアはこれまでに幾度となく感じたことを胸の内で呟いた。ゴンドールを脅かし続けていたモルドールは崩壊した。冥王の滅亡によって。それを可能にしたのはかの小さき人たちの働きと——、
「何を見ているんだ?」
今やこの太陽の地におわす、王の帰還だった。
「空を——」
ボロミアは微笑んで振り返った。ゴンドールが千年ぶりに迎えた王の姿がそこにあった。ローブに裸足というすっかり寛いだ姿だが、このときばかりは咎められない。朝の支度に訪れる侍従長が寝台の様子を目にすれば、慇懃に湯殿に放り込まれる——と聞かされては、ボロミアが言えることはない。口の堅い廷臣に感謝するのみである。
「以前は、こんな美しい空は想像できなかった。東の空にはいつも、あの禍々しい影があった。それが払われた」
主君の肩を抱き寄せ、その耳許に自分の喜びを囁く。当然、笑顔が返ってくるものと思っていたが、腕の中の人の表情はなぜか翳った。
「……アラゴルン?」
思いがけない反応に真名が口を付いて出た。
「どうしたのだ?」
「いや……。この街の人たちは、ずっとあの影が伸びるのを見て過ごしてきたのだなと……。本来、空に影など無いのが当然なのに——」
その本来の姿が取り戻せて喜ばしいと言ったまでなのだが、黒髪の麗人は愁い顔で目を伏せた。
「イシルドゥアの残した負債は大きなものだと、今更ながら感じるよ」
ボロミアは息を呑んだ。
「アラゴルン。あなたはまだ——」
こだわっているのか? 三千年前のことを。
「なぜだ? 指輪もサウロンもモルドールも滅んだ。あなたは持てる力をすべて使って戦い、勝利を手にした」
モルドールに与した勢力が幾らか残っているが、オークやウルクなど闇の生き物は、討伐によって徐々に数を減らしている。また、東や南の地域では和平を結ぶ国も増えている。長く続いた戦いにより、ゴンドールの国土は疲弊しているが、その前途は以前のように暗くはない。それもこれも新しい王が在るからだ。
「何も気に病むことはないではないか。なぜ未だに気にする?」
「悪い、ボロミア。そういうことじゃないんだ。気に病んでいるのとは少し違う」
彼は慌てたように言い、安心させるように笑った。
「ただ忘れたくない。憶えておきたいんだ」
ボロミアの頬にそっと手が触れる。
「イシルドゥアの災い——彼が誤った選択をし、その後長い歳月に及ぶ災いを残したこと——を思い出せる間は、似たような間違いを犯すことは避けられるんじゃないかとね」
「あなたにそのような戒めは必要ないと思うが」
ボロミアははっきり言った。自分のことはわからない。けれど、この人が道を踏み外すことはあり得ないと思っている。なにしろ、あの指輪の誘惑に屈しなかったのだから。
「大将殿がそう言ってくれるのはうれしいが……、イシルドゥアよりも近いわたしの先祖は、一度、国を滅ぼしている。それに、ヌメノールが中つ国にやって来たのも、禁を破って国を滅ぼしてしまったせいだ。どんな王にも国を滅ぼす可能性はある」
言葉の割に穏やかな顔で彼は笑った。
「では、あなたにその可能性だけはないと、わたしは信じよう」
「……あんたのその強気は何が根拠になってるんだ」
青灰色の瞳に呆れた色が浮かぶ。
「さあ、この空かもしれませんな」
ボロミアは再び東の空を見た。
「空って……、サウロンが滅んだのはフロドたちのおかげだろう。わたし一人の力じゃない」
「もちろん、彼らにも感謝しておりますぞ」
旅をしていた頃の自分は、裂け谷の智恵者に敬意はあったが、彼が示した方針には半信半疑だった。モルドールの奥深くにある滅びの山へ、本当に辿り着けるのか。辿り着けたとして、そこへ指輪を投げ込むだけで真実サウロンを葬ることができるのか……。国の窮状に追いつめられていたせいもあったが、その迷いが付け込まれる隙だったのかもしれない。指輪の誘惑に。
かの小さき人はボロミアが疑ったことを信じ貫き、この世界を救った。どちらが愚かだったか考えるまでもない。彼と彼の友人たちへの感謝は、どんな言葉を使っても表せないほどだ。
だが、ボロミアにとって、影なき暁の象徴はアラゴルンだ。太陽の地に相応しい東の空を取り戻した王。その瞳は今、空の色を映し、淡い青い色をしている。
——不思議なものだな。
彼の瞳の色は見る時々によって印象が変わる。黎明では、その空にある紺青、太陽が高く輝くときは澄んだ青。夕陽を映したときは、虹彩が紅紫の色を見せる。季節や時、陽の光によって刻々と変わる空の色と同じだ。それに魅せられる。その瞳を覗き込み、そっとこめかみに唇を寄せようとしたとき——、
「ところで、もうそろそろ帰ったほうがいいんじゃないのか。朝議に間に合わなくなるぞ」
黒髪の麗人はするりとボロミアの腕を擦り抜けた。こういうことろは相変わらずというか、つれなさを感じてしまう。
「演習から戻って初の朝議が遅刻ではまずいだろう」
自分が出席しない気楽さか、にやりと笑うあたりが憎らしい。だが、確かに彼の言うとおりだ。支度のため、館へ戻らねばならないのだから。
「そうですな。お名残り惜しいが一旦戻るとしよう」
ボロミアは頷いたが、今し方にやりと笑われた返礼を忘れなかった。
「特にこれから数日、朝議の後、来月の式典の段取りを決める臨時の場が設けられるとか——。ご生誕の祝典を演習で失礼したわたしに、これは外せませんからな」
青い目が信じられないことを聞いたように瞬き、見開かれた。
「ちょっと待て。わたしは聞いてないぞ。そんな話」
来月の式典とは言わずもがな、戴冠を記念してのものだ。国王夫妻のご成婚記念と合わせて催されるため、その規模は大きくなる。典礼や宴の類を苦手とする現王にとって、春から夏にかけては、いかにそれらを簡素にするか思案する季節でもあった。
「だいたい、そんな急拵えの話し合いでどうやって決めるんだ」
いつになく必死な様子の主の姿に、ボロミアは弟の企みが的中したことを知った。
「その点はご心配なく。ファラミアが準備すると言っていたのでぬかりはないでしょう」
執政の狙いは二つあった。一つは諸侯への牽制、もう一つは式典の場で国王の威光を示すこと。どちらも王権の強化につながる。ただし、式典の場で威儀に適った衣装を現王に召していただくのは、なかなか骨の折れる作業だ。それを、王が傷を負った突発事を逆手に取り、策を立てたわけである。
「なに、決めると言っても大枠だけ。つまり、陛下のお出ましになる場やご衣装などだ」
「それのどこが大枠なんだ。わたしの衣装など後でいいだろう」
「何を仰せか。典礼では主役の衣装を基本に他の装飾を考えるもの」
彼とて儀式や典礼の決まりごとを知らぬはずはない。そう思うと取り乱し気味の反論も可愛らしいもので、ボロミアは笑いを噛み殺すのに苦労した。
「陛下のご衣装が決まらなければ他も一切進まなくなりますぞ」
「だったらどうして、わたしのいない場で決めるんだ」
それは、あなたに決めさせたら、どんどん簡素で地味なるからではないか、我が王よ——。胸の内で呟きながら、ボロミアは微笑して弟の受け売りを口にした。
「恐れながら、そのお答えは陛下が一番よくご存じではありませんかな」
恭しく一礼して扉へ向かう。
「そういえば、白の木に花芽が付いていた。来月はきっと素晴らしい眺めになりますぞ」
扉を閉める直前、悔しそうな顔がちらりと見えた。少々やり過ぎただろうかと思いながらも、ボロミアは頬が緩むのを抑えられなかった。太陽がもっとも輝きを増す季節、想い人の艶やかな姿が見られるのだから。そのとき、かの人の瞳はどんな彩りを見せるだろう。
END
<5.残照
ここまでお付き合いありがとうございました。
いつもと逆で、最後は大将のほうが一枚上手となりました。もっとも、弟君の策に乗っかったからですが。やはり、最強キャラは執政でしょうか。後日、陛下から二人に“お返し”がありそうな気もしますが(そんなキャラばっかりだな)……。
個性の強いトライアングル宮廷。なにはともあれ、しっかりと国を治めてもらいたいものです。
「ファラミアが活躍する」というリクエストでしたので、文武両道(?)で活躍してもらいました。後半は暗躍かもしれませんが(苦笑)。
それにしても、この話の主人公って誰でしょうね(^^;)語り部=主人公なら前半は弟君、後半は兄君かな。兄弟から見た主君ということで、いかがでしょうか。<訊くな
いつもと逆で、最後は大将のほうが一枚上手となりました。もっとも、弟君の策に乗っかったからですが。やはり、最強キャラは執政でしょうか。後日、陛下から二人に“お返し”がありそうな気もしますが(そんなキャラばっかりだな)……。
個性の強いトライアングル宮廷。なにはともあれ、しっかりと国を治めてもらいたいものです。
「ファラミアが活躍する」というリクエストでしたので、文武両道(?)で活躍してもらいました。後半は暗躍かもしれませんが(苦笑)。
それにしても、この話の主人公って誰でしょうね(^^;)語り部=主人公なら前半は弟君、後半は兄君かな。兄弟から見た主君ということで、いかがでしょうか。<訊くな