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陽の彩り[1.黄昏]
窓から射し込む光が朱色を帯び始めた。ファラミアは燭台に灯をともし、主君が署名し終えた書面を箱に納めた。
「本日、目を通していただく書類はおしまいです」
主であるゴンドールの国王、エレスサールは軽く頷いた。冷めた茶を啜って、おもむろに訊く。
「ボロミアは遅いな」
「明日か明後日には戻ると、先触れが参りましたが」
予定が延びると報せがあってから十日が過ぎた。次は延びないと思うが、気に入りの玩具を取り上げられたかのように、主君はふさぎ気味である。
「……そうだな」
そう頷いたものの、茶器を置いたエレスサールの口から漏れたのはため息だった。主の名誉のために添えておくと、彼が鬱屈した気分になっているのは、大将が留守だからではない。ボロミアの留守中、城外への微行は控えると確約してしまったためだ。つまり——、
大将が戻らねば街へ下りられないのである(戻ったからといって頻繁に出かけられては困るが)。彼の気分が沈みがちなのはこの禁足措置だった。
今のところ、義理堅い主君は約束を守ってくれている。おかげで侍従や近衛兵の日々は平穏無事だ。逆に陛下の御心は下降する一方で、特にこのひと月、他の事情も重なってそれが顕著になってきている。
国政は今、王が統治する体制へと舵を取ろうとしている。その手始めに、主立った諸侯の下へ査察の官吏を置くよう調整を進めている。もちろん、自領にそんな煙たい存在を置きたい者はいない。そんな物好きはドル・アムロスの領主くらいだ(イシリアンはまだ人口も地の実りも少ないということで除外されている)。
根回しを行っているが成果は芳しくなく、かえって他の議案も嫌がらせのように頓挫させられることが、このひと月余りでしばしば起こるようになった。それらには対策を講じているが、微行を控えて気鬱になりがちな主君の気分を、更に沈み込ませる効果は充分で、エレスサールのため息の数は増える一方だった。
——そろそろ限界か。
ふぅ……っと落とされる吐息の音を聞きながら、ファラミアは近いうちに国王の予定に遠乗りを入れようと思った。甘い顔をする気はないが、半生を野で過ごしてきた人である。あまり束縛しては息が詰まってしまうだろう。
——いや、既に詰まっているか。
大将の帰還延期の報がもたらされて以後、食が細くなった。顔色も優れない。早急に気晴らしをさせなければ——と、考えているところへ「ファラミア」とエレスサールの声がかかった。
「はい」
「これで書類は終わりだったな」
確かめるような訊き方に、これは……と、ある予感を巡らせながら、ファラミアは素知らぬ振りで答えた。
「はい。今日のところは」
「それなら……」
エレスサールは首を傾げ、上目遣いで窺うようにこちらを見ながら、おずおずと言った。
「その……少し出かけたいのだが……」
予想どおりの言葉だった。限界は当人が一番良くわかっているのだろう。ならば、黙って抜け出してしまえば良いものを。約定があるからと、いちいち断るあたり、律儀である。さて、なんと答えようか——。
「わたしにそのようなことをおっしゃられても、お答えいたしかねます。陛下がお約束なさった相手はボロミアでしょう」
「そうだが……、今ここに居ない相手だ」
エレスサールは困った顔で、幼子のように首を傾げた。これが遡れば伝説の英雄につながる、中つ国でもっとも高貴な血族の末裔で、ゴンドールとアルノールの二国を統べる王の実体なのだから、世の中というのは油断がならない。だいたい、いくら前歴が野伏だったからといって、微行を好むというあたり、変わり者である。
もっとも、伝承をひもとけば、稀代の英雄などと呼ばれる存在はみな変わり者だ。そうでなければ、誰も為し得なかったことを成せないのかもしれない。そう考えると、エレスサールが多少変わっていたところで仕方ないとも言える。
街へ下りたがるのも国王としては困った癖だが、酒や女に耽溺することを考えれば数倍マシである。おとなしく護衛を連れていってくれれば良いのだが……と思いながら、ファラミアはまず四角四面の返答をした。
「とにかく、その件はボロミアが戻ってからお話しください」
エレスサールの肩がしょんぼりと落ちる。その様子に笑いを噛み殺しながら、ファラミアは言葉を続けた。
「それが、たとえ、反故なさったことを謝る場合でも——ですよ」
ぱっとエレスサールの顔が上がった。
「わたしは一切関知いたしませんので、そのおつもりで」
彼が何か言う前に、ファラミアはまとめた書類を手に一礼して身を翻した。国王の執務室を退出し、廊下を歩きながら今夜の対策を思案する。エレスサールは今晩、城を抜け出すだろう。関知しないと言った時点で、黙認と同義になる。
——野伏を張りつかせておくか。
脳裏に執政館に滞在しているイシリアンの野伏の姿が浮かんだ。一番良いのは、エレスサールが長を務めていた北方の野伏に依頼することだが、あいにく主立った者は旅に出ていると聞いた。 エレスサールは常々護衛は不要だと主張するが、いくら並び立つ者のない遣い手でも万が一ということがある。微行を黙認したとはいえ、単身で出かけさせる気はなかった。
中庭に出たところで、不意に冷たい風が吹いた。背筋にぶるりと震えが走る。誰もいないとわかっているのに、来た道を振り返っていた。にわかに厭な予感に囚われ、ファラミアはそれを払うように首を振った。
——何も起こらなければ良いのだが……。
黄昏の光の中、会ったばかりの主君の幻影が浮かんで消えた。
2.暗夜