[1][2][3][4][5][6]

陽の彩り[5.残照]
紫紺に染まっていく空の端に、オレンジ色の帯が滲むように伸びている。翳りゆく眼下の街では、明るい色があちらこちらで灯り始めた。各層の門や城壁にも篝火が焚かれている。夕陽で石造りの白い肌を薔薇色に染めていた貴婦人は、今や夜の支度に余念がなかった。
「ボロミア様。どうかなさいましたか」
城塞に突っ立って動かないボロミアを、衛兵が何事かと声をかけてきた。
「いや、なんでもない」
ボロミアは軽く笑って踵を返した。噴水の脇を通り過ぎる。まだ時季ではないため、ニムロスに花はない。その淋しい姿に、俯き肩を落とした主の姿が重なり、ボロミアは思わず目を逸らした。
西の空で狭まっていくオレンジの帯が目の端に映る。白の木を守護する衛士の武具に、落日の最後のきらめきが照り返った。その光に一瞬、目が眩み、思わず足が止まる。
軽く頭を振って顔を上げると、再び白い木の枝が目に入った。そこに先程は気づかなかったある変化を認め、ボロミアは我知らず口許を綻ばせた。三ヶ月前にはなかったうれしい兆しだ。
——見頃は来月だろうか。
枝に花芽が付いていた。かの人が戴冠した季節には見事な花が開くだろう。降りしきる白い花弁の下、王冠を戴いた人が立つ情景がよぎる。会議の後、聞かされた弟の企みを思い出し、ボロミアは目を細めた。しばし木を眺め、再び歩き出す。向かう先は、ついさっきまで訪ねることを迷っていた主の元だ。ただし、その前に——、
ボロミアは厨房に立ち寄り、料理長に頼み事をした。
◆◇◆◇◆◇◆
二度目の訪問となった王の執務室は灯りもなく、しんと静まり返っていた。いつもなら抜け出されたかと思うが、今夜はさすがにそれはないはずだ。ボロミアは、国王の私室と化した隣室へ足を踏み入れた。
半ば扉が開いていたため予測はしていたが、そこも執務室同様、灯りすら点いていなかった。今時分、夜はまだ冷える。寝台の置かれたこの部屋には、日暮れ時に係の者が暖炉に火を入れに来るはずだが……。
「陛下……?」
第一、部屋の主はどこへ行ったのか。まさか、出歩いているのか……と思ったとき、視界の隅でカーテンが揺れ、暗い室内に冷えた風が吹き込んできた。
「……陛下?」
露台へ顔を出すと、手すりにもたれて佇んでいる人が居た。こういうときの彼はパイプや酒杯を手にしているのが常だが、今夜は何をするでもなく、覗く横顔はぼんやりと暗い宙を見ていた。ボロミアが露台に踏み出しても、振り向こうともしない。
——昼間の一件が響いているか。
口が過ぎたことは事実であり、つれなくされようと恨む気はない——が、夜着一枚に裸足、おまけに湯を使ってきたのか、髪はしんなり湿ったままという姿には黙っていられなかった。
「陛下。中へお入りを」
近寄って声をかけると、エレスサールがぎょっと振り向いた。
「え? ……あ、ボロミア……」
気配に聡い彼が今まで気づきもしなかったのか、意外そうな顔でまじまじとボロミアを見つめた。
「……いつ……あ、どうして……。その……、どうかしたのか」
彼らしからぬ動揺した態度に、ボロミアは眉を顰めた。
「どうかなさっているのは陛下のほうとお見受けするが……、まずは中にお入りを。そのようなお姿で夜風にあたっては風邪を召されますぞ」
「あ、ああ……」
彼は曖昧に頷き、ボロミアが促すままに部屋へ入った。
「もう少し気をつけていただきたい」
ローブを着せかけると、エレスサールはおとなしく袖を通した。常ならば袖を通すまでに、「慣れている」や「大したことじゃない」といった言葉が出るところである。何か言いたげな表情ではあったが、頷くだけに終わった。ずいぶんと神妙な態度である。午後の一件が原因かと思うと、あまりいい気はしなかった。
ボロミアは灯りを点け、暖炉に火を入れた。エレスサールは所在なげに立ったまま、こちらを見ている。その視線はボロミアを落ち着かない気分にさせるのに充分で、思わずため息が漏れた。
ここに来るまでは、言葉が過ぎたことを詫び、そのうえで身の安全にもう少し気を遣って欲しいと率直に話すつもりだった。だが、しおれているエレスサールを目の前にして、そう簡単に済むものではないと悟った。
——さて、どう話を切り出そうか……。
考えあぐねていると、執務室のほうで扉を叩く音がした。
「わたしが出る」
エレスサールを留めて扉を開けにいくと、思ったとおり、控えの間に料理長の姿があった。傍らに小ぶりのワゴンがある。他に誰もいないところを見ると、厨房の長自らが運んできたらしい。
「世話をかけた」
「いえ。これくらいなんでもありません。陛下にきちんと召し上がっていただくことのほうが大切です」
実直な男が静かに笑んだ。何ごとかある度、食を細らせる主君に厨房は手を焼いている。エレスサールは夕食にほとんど手を付けなかったらしく、厨房の者は肩を落としていた。
「料理長の言葉、伝えよう」
ボロミアはワゴンを受け取った。温められたシチュー、葡萄酒、幾つかの酒肴が載っている。
「あとはわたしがする。遅くにご苦労だった」
料理長は一礼して退出していった。それを見送ってワゴンを執務室に入れる。扉を開けると、エレスサールが立っていた。
「なんで……」
控えの間でのやり取りは聞こえていただろうに、そんなことを訊く。
「決まっている。夕食をまともに取らなかった王に召し上がってもらうためだ」
ボロミアが答えると、エレスサールは心底不思議そうに首を傾げた。
「そんなことのために、わざわざ……?」
「国王の食事は『そんなこと』で済まされることではない」
「あ……、ああ、そうか。そうだな」
エレスサールは納得したように頷いたが、その口振りはどこか他人事めいて聞こえた。
「料理長の言葉をお聞きになっただろう。厨房の者もあなたが召し上がらないと肩を落とす」
ワゴンを運び、寝台脇のテーブルに皿を並べる。
「夕食のときは……食欲がなかったんだ」
ぽつりとエレスサールが呟いた。そんな彼を座るように促し、匙を握らせてボロミアは言った。
「だからといって、食事を疎かにしては身体に障る。少しは召し上がるべきだ」
「口の傷に染みるんだ」
往生際悪く、エレスサールは言い訳を口にした。
「朝食と昼食は普通に召し上がったと聞いたが?」
ボロミアが皮肉げな視線を向けると、彼は「う……」と声を詰まらせた。その後は俯いてシチューの皿を見つめ、それから上目遣いにボロミアを窺い、また俯き……。まるでシチューにアヤシイものが入っているような反応だ。
「毒味が必要ならいたしますぞ」
「え? いや、そういうつもりでは……」
エレスサールは慌てたようにシチューを掬い、匙を口に運んだ。ゆっくりとではあったが、二度三度と続いて匙を運ぶ。なんとか食べてくれるらしいとボロミアは安堵し、葡萄酒の栓を抜いた。ワゴンにあった二つのグラスに注ぎ、片方をエレスサールの前へ置く。彼は意外そうにボロミアを見た。
「飲んで……いいのか?」
いいに決まっているだろうに、なぜ、そんなことをと思ったら「傷に障る」という言葉が続いた。確かに怪我に酒精は良くないが、出血が止まらない場合ならともかく、一杯程度なら寮病院の医師とて咎めない。
「飲み過ぎなければ問題ないだろう。夜風で冷えた身体も温まる」
「それも……そうだな」
エレスサールは再び匙を動かし始めたが、もの問いたげにこちらを一瞥した後、おもむろに口を開いた。
「その……ボロミア。あとはきちんと食べるから、……もういいぞ」
遠慮がちながら、退出を求める言葉だった。
「わたしがここに居るのは邪魔だと?」
「いや、まさか。そうではなく——」
眉根を寄せたボロミアの問いを、エレスサールは慌てて否定した。
「わたしに食事をさせるために、これ以上、大将殿を煩わせては悪いと思って……」
何を気にしているのだとボロミアは呆れた。昼間の一件があったからといって、そんなことに気をまわす間柄ではないはずだ。
「煩わされているとは思っていないが」
「しかし……」
エレスサールが困った顔で俯く。その態度に苛立つ自分をなんとか抑え、ボロミアは考えた。
今夜の彼はおかしい。妙におとなしいのは昼間の件のせいだろうが、自分が声をかけるまで、近づく気配に気づかなかったことがそもそも異常だ。そのうえ何を訊いても、返ってくるのは歯切れの悪い言葉である。エレスサールの態度に釈然とせず、ボロミアは率直に訊くことにした。
「わたしがここに居るのは、あなたが心配だからだが、それは迷惑か?」
「……しん……ぱい?」
瞠目した淡い青の虹彩に驚愕の色が浮かび、その喉から掠れた声が漏れた。その反応にボロミアのほうこそ驚く。いったい何をそんなに驚くことがあるのか。
「わたしがあなたを心配するのは、そんなにおかしなことか?」
少々、憮然として訊くと、エレスサールは目をしばたたかせた。
「あ、いや……『もう何も言わぬ』と言われたから……」
ボロミアはあんぐりと口を開けた。
——なぜ、そういう言葉だけ額面どおりに受け取るのだ。
と思っても、彼を責めるわけにはいかない。自業自得である。とにかく誤解は解かねばならない。
「実は——、今夜はそのことをお詫びしに参ったのだ」
ボロミアは頭を下げた。ファラミアから事情は聞いた。このひと月あまり、一部の諸侯による子供染みた嫌がらせが続き、気分が相当鬱屈していたこと。そんな中、ボロミアの帰還が遅れると報せが入り、それ以降、食が細くなったこと——。
そんな状態で微行という気晴らしを禁じられていたのだから、さぞ息苦しい思いをしただろう。それでも、ボロミアの留守中、彼が街に下りたのは昨夜の一度だけだという。
留守中の話を知って、ボロミアは己の発言を悔いた。約束は反故にされたが、事情を知っていれば頭ごなしに怒鳴るなどしなかっただろう。先に事情を聞いておけば……、と漏らしたボロミアに、弟はくすりと笑って見解を述べてくれた。
——兄上は、陛下のお顔の傷を目にした途端、顔つきが変わりましたから。これはお話ししても聞いていただけぬだろうと……。
否定できない自分にボロミアは苦笑するしかなかった。だからこそ、事情を知った今はきちんと話をしたい。
「事情をお聞きした。感情的になり我を忘れたが、本心ではない。どうかお許しいただきたい」
再び頭を下げる。エレスサールはじっとボロミアを見ていたが、ふと目を伏せ、穏やかに言った。
「大将殿が詫びるようなことは何もない。取り決めを反故にしたのは事実だし、王位に対して自覚が足りないのも本当だ」
その顔に自嘲めいた笑みが浮かぶ。
「午後からずっと考えていたんだ。昨夜の場合、わたしは事件に首を突っ込まず、イシリアンの野伏の言葉に従って屋外に避難すべきだった。身の安全を確保するために。それが国王の取るべき行動なんだろう」
ボロミアは頷いた。自分たちにとって、エレスサールの身の安全は何よりも優先されることだ。
「昨夜の件は既に過ぎてしまったが……、では、次に似たようなことが起こったら——それが微行の最中ではなく戦闘中だったとしてもだ、わたしは避難するだろうか? ——おそらく出来ない。きっとまた同じことをしてしまう。王としてあるまじき振る舞いだとわかっていても、わたしは同じ愚かな方法を選んでしまう」
青灰色の瞳がまっすぐにボロミアを見る。
「もちろん、簡単に命を捨てるつもりはない。ただ、同じ避難するなら、一人でも多くの者を避難させたい。わたしの力で助けられるなら、その選択肢は残しておきたいんだ」
淡々としていたが、強い意思を秘めた言葉だった。
——そういうことか。
ボロミアの脳裏に共に旅をした頃の彼の姿が蘇った。彼は何も変わっていないのだ。仲間が危難に見舞われたら、真っ先に飛び込んでいったあの旅の頃と。身を投げ出すような戦い方と傷が耐えないことに、当時は眉を顰めたが、それでも彼は仲間を救い、自身も生き残った。
王には国と民を保護する責がある。可能な限り多くの者を助けたいという望みは、王として間違いではない。王自身も無事でなければ意味がないが、彼は最低限の身の安全は確保する。ボロミアにしてみれば“最低限”でなく“無傷”でいて欲しいが、それは臣下の思惑だ。そうした概念に捕らわれず、いざというとき躊躇なく超えていくからこそ、至高の存在なのかもしれない。
「ならば——」
しばしの沈黙の後、ボロミアは口を開いた。
「昼間、『何も言わぬ』と申し上げた発言、取り消させていただいてよろしいか?」
なんだそんなこと——という顔でエレスサールが頷く。
「そうすれば、あなたが首を突っ込む度、わたしは堂々とお諌めできる」
ボロミアは笑った。
「それに、何も言わないでいるのは難しい。薄着で夜風にあたっていたり、食事をまともに取らなかったり……、そんなことばかりなさるから放っておけなくなる」
「……酷いな」
エレスサールが苦笑する。普段の彼らしい笑みだった。
「そういう言い方では、わたしがまるで子供ではないか」
「似たようなものかと」
ときに老獪な顔を覗かせることを考えると、子供より手がかかるかもしれない。
「ますます酷いな」
面白くなさそうに呟いたエレスサールだったが、すぐに笑みを浮かべた。
「まあいい。そういうことなら、わたしはせいぜい大将殿に世話を焼いてもらうことにしよう」
「喜んで」
ボロミアは葡萄酒を飲み干し、グラスを置いて立ち上がった。身を屈め、エレスサールの頬に触れる。顔を近づけると、やはり頬と唇の傷が目立った。
「気にするな——と言っても無理なんだろうな」
エレスサールがため息を吐いた。
「ファラミアにも、傷が目立たなくなるまで表に出るなと言われてしまった。おかげで朝議に出られない」
つまらなさそうに呟く主の姿に、ボロミアは笑いながら傍らの寝台に腰を下ろした。彼の腕を取り、その細い身体を抱き寄せる。三ヶ月ぶりの温もりだった。
「ファラミアに少々企みがあるらしい」
「企み?」
腕の中で麗人が首を傾げる。
「諸侯たちの同情を引くつもりだ。一部の者たちの心ない仕打ちに、陛下は御心を痛め、ついに臥せってしまった——と」
「そんな情けない話で効果があるのか?」
エレスサールが嘘だろう? という顔で訊いた。
「さあな。わたしにはわからん」
「おい……」
「だが、あなたの健康を害しているとなれば、連中への風当たりは強くなるだろう」
連中は王の権力が強まることを警戒しているが、王その人を害しようとは——今のところ——考えていない。先走った危機感に煽られ、単に同調しているだけの者もいる。そういう者たちを抑える効果は期待できる。
「そういうものか……?」
エレスサールは不審げに首を捻った。
「ああ。王の身分とはそういうものだ」
ボロミアが頷くと、彼の口からふぅっと大きな息が漏れた。
「ご大層な話だな」
「そう。ご大層な位だ」
なにしろ、千年近い歳月、あのきざはしの上に座する者はいなかったのだから。
「だからもう少し自重してくれ」
青灰色の瞳を覗き込む。
「……なるべく努力しよう」
返ってきた呟きは確約するものではなく、ボロミアを嘆息させた。ことり、と肩にエレスサールの額が乗った。
「しばらくはおとなしくしている」
——良し、とするか。
ボロミアは黒髪を梳き、そっと唇を寄せた。蝋燭がジジッと音を立てる。揺れる灯が照らす中、二つの影が折り重なるように寝台へ沈んだ。微かな衣擦れの音が続き、やがて甘い吐息が室内を満たしていった。
4.白日 | 6.暁光
残照言うても、ほとんど夜の話やないけ! ——暗夜に続きハズレたサブタイトルでお送りしますm(_ _)m
ニムロスの開花時季ってほんとはいつなんでしょう?<ヲイ

もうひとつ気になるのが、ゴンドール——ミナス・ティリスの昼間の長さはどれくらいか、ということです。
夏至があるのだから、季節によって昼(夜)の長さは変わっていると思います。が、夏と冬でどれくらいの違いがあるのか……?

——サマータイムが導入できるくらい?

六月上旬に倫敦へ行った人の話によると、夜の九時頃が黄昏時だったそうです。冬に仏や伊へ行ったときは四時を過ぎるともう暗かったとか……。日本の感覚とはズレますね(^^;)

同じ中つ国でもシャイアやフォルノストなど北の地と、ゴンドールでは日の出や日没の時刻が違う気がします。時差もあるかな?<緯度や経度があるんかい