静焔[2]
「ほかにご用はございますか」
水差しを取り替えた執事が慇懃に訊いた。
「いや」
ファラミアは軽く首を振った。
「後はいい。遅くにすまなかった。休んでくれ」
「失礼いたします」
扉の閉まる音を聞いて、ファラミアはふっと息を吐いた。寝台に腰掛け、読みかけだった本のページを繰る。だが、文字を追っていたはずの目は、気づけばあらぬ空間に、本の内容とは無関係の情景を見はじめた。
——だめだな……。
ファラミアは自嘲の笑みを浮かべた。さっきもそうだった。なかなか寝つけず、本を開いてもさっぱり頭に入らなかった。外の冷えた空気でも吸えば、少しは気が落ち着くかと、そう思って廊下に出た。
階段を下り、庭へ出ようとしたが、回廊の手前で執事に見つかった。訝しげにこちらを窺う彼を「水差しの水が無くなった」と誤魔化し、自分はそそくさと部屋に戻った。戻ってきて、水差しの水を露台の鉢に空けた。
「……滑稽だな」
本を開こうと、夜の庭を歩こうと、何の解決にもならない。それぐらいわかっているというのに、何をじたばたしているのか。寝つけない理由なら、既に知っているではないか。
ファラミアは寝台を下りた。燭台をかざして窓に近づき、すっとカーテンをめくった。玻璃に炎に照らされた己の顔が映る。しかし、眺めているうちに、火影に揺れる顔は主君の笑みに変わった。愛しい王——、
エレスサール。
いつからだろう、目を合わせられなくなったのは。焼きつけるように主の姿を見つめながら、その視線を受け止められなくなったのは。
ファラミアは火影に浮かぶ笑みへ、そろりと指を伸ばした。指先が冷えた玻璃の感触を捕らえる。途端、幻は儚く消え去り、暗い窓には劣情に身を焦がす愚か者の顔だけが残った。ファラミアは顔を背け、カーテンを引いた。
——目を逸らしても何も変わらぬぞ。
胸の内で嗤う声がする。そう、何も変わらない。だが、見ていられなかった。それほどまでに、玻璃に映った己は醜かった。昏い水の色をした瞳は、身のほど知らずの欲望を滲ませ、卑しく淀んでいた。
——いつまで誤魔化せるだろう。
この醜い欲をいつまで抑えておけるか。日毎に募っていく想いに怖くなる。もう気の迷いだと笑っていられない。
眠って朝を迎えれば忘れられる、そう考えたこともあった。しかし、そんな考えは浅はかだと知るのに、幾晩もかからなかった。
夢に見るのだ。
夢の中で、自分は敬うべき人をほしいままにし、乱れる主を眺め、満足そうに笑っていた。目覚めてぞっとした。なんとおぞましい欲望を抱いているのだと。
冷や汗に濡れながら、正夢にならねばいいと願った。けれど、夢路でなく、この腕に抱けたなら……。禁じる端から欲が芽生えてきた。
——どうすればいいのだろう。
隠しとおし、抑え込むしかないことはわかっている。だが、このままかの人の傍らに存り続けたら、いつか、この醜い欲が溢れ出すのではないか。日を追うごとに不安は増す。
そんな状況で、僅かながら希望となったのは、エミン・アルネンで暮らす準備が整ったことだった。
——離れてしまえば、あるいは……。
新しい地で、あの朗らかな姫を迎え、共に生活をはじめれば、落ち着くのではないか……いや、落ち着いてほしい。今はそう思いたかった。主君を冒涜する嵐のような心をいつまでも抱き続けるなど、そんな恐ろしいことは考えたくもなかった。