静焔[5]
とっぷりと日が暮れ、窓の外がすっかり暗くなった頃、ファラミアが意識を取り戻した。寝起きのせいか、毒気を抜かれたような表情をしており、夕刻見た激情の影は窺えなかった。
アラゴルンは自分が喰らわせた膝蹴りの影響を心配したが、彼はいたって冷静に大丈夫だと言った。青ざめた顔が気がかりだったが、夕食代わりのパンとチーズを食べさせたところ、少し血色は良くなった。
「それで、夕方の件だが——」
アラゴルンはまず自分の気持ちを聞いてもらおうと、話を切り出した。
「どうやら、あなたの気に障ることを言ってしまったようだ。すまない」
ファラミアが慌てたように謝る必要はないと言ったが、アラゴルンはとにかく話を聞いてくれるようにと説き伏せた。もし、それでも気持ちがおさまらなかったら、好きなようにしてくれて構わないと——。
ファラミアは釈然としない顔をしていたが、特に異議は唱えなかった。了承してもらえたものとして、アラゴルンは話しはじめた。
ボロミアとデネソール——二人の名を出したことが気に障ったようだったから、はじめにそのことを詫びた。ただ、二人のことに触れたのは、話相手が彼らの肉親であるファラミアだったからで、悪気はなかったとも言った。
自分は影の消えた空を、斃れていった仲間たちに見せたかったと思っている。それと同じように、ファラミアも近しい者に見せたかったのではないか——そう思ったからだと。
自分にとって執政は、これから国を立て直していくパートナーだと考えている。空から影が消えたことを喜び、また、その空を臨みながら共に国をつくっていこう。そのために力を貸してほしい——その思いを伝えた。
ファラミアはほとんど黙って聞いていた。少しはわかってもらえたのかと思い、アラゴルンは幾らかほっとしながら、改めて不用意な発言を詫びた。
「何にせよ、わたしの勝手な思い込みで、あなたを傷つけてしまった。——許してくれ」
頭を下げたアラゴルンの手を、ファラミアがそっとつかんだ。
「お顔をお上げください」
穏やかな声に顔を上げると、笑みを浮かべた執政の顔があった。それを見た途端、気持ちが通じたのだと、なぜかそう思った。自分の手を握った彼の手が温かい。それが心地良くて、アラゴルンは彼の手を握り返した。しかし、それも長引けば怪訝に思うようになる。
「ファラミア?」
どうしたのかと、アラゴルンは首を傾げた。今し方、笑みを浮かべていた男の瞳に思い詰めるような色が広がっていく。まだ何か問題があるのか……。
そういえば、自分を避けるようになって以後、彼の顔に表れた翳りの理由をまだ訊いていない。だが、今、訊いてもいいものか——そんなことを考えていると、不意に、握られたままだったの両手が強く引かれた。
まったく無防備だった身体は、そのままファラミアの腕の中に飛び込む。がしりと抱き止められ、アラゴルンはさすがにまずいと感じ、慌てて身を捩った。
「おいっ……」
しかし、もがいても腕ごと押さえられた拘束は解けず、抵抗も虚しいまま、肩を押されてシーツに引き倒されてしまった。のしかかってきた相手は、手をアラゴルンの胸元に付き、起き上がろうとする動きを封じる。空いたほうの手がそろりと頬を撫でた。
「待て、ファラミア」
動くようになった腕で、迫る相手を押し止める。けれど、ファラミアは止まらなかった。押し返そうとする腕が捻られ、シーツに縫いつけられそうになる。
「待てません」
冷たい拒絶の言葉に、アラゴルンは目を見張った。
「……ファラミア」
声が掠れた。
「納得……できなかったのか」
わかってもらえたと感じたのは、自分の勝手な思い込みだったのか。「お顔をお上げください」という言葉は、気持ちが通じたから発せられたからではなかったのか。信じられない思いで、我が身にのしかかっている男を見つめた。
「陛下は仰せになりましたね」
息の詰まるような沈黙がしばらく続いた後、男は口を開いた。
「気持ちがおさまらなければ、好きなようにして構わないと。ですから——」
彼の指がするりとエレスサールの頬を撫でた。啄むように唇が下りてくる。まるで、これから弄ぶという合図のように。
「こうさせていただきます」
静かな宣告にアラゴルンは目を閉じた。
「わかった」
諦めの息を吐き、身体の力を抜く。
「あなたの気の済むようにするといい」
陰鬱な夜がはじまると思った。