[1][2][3][4][5][6][7]

静焔[1]
東の空から影が消え、ゴンドールは久しく迎えたことのなかった光溢れる夏を過ごした。戦いが春に集結したこともあり、争いの去った大地では作物が順調に育っていた。そうして輝かしい夏は過ぎ行き、季節は実りの時を迎えていた。
◆◇◆◇◆◇◆
初夏にゴンドールの王となったアラゴルンは、収穫高の報告書から目を上げ、ほっと安堵の息を吐いた。
「心配していたが、なんとか冬を越せそうだな。よかった」
モルドールは滅んだが、春までは戦続きだった。王都にも攻め込まれたのだ。当然、耕地も荒らされた。充分な収穫を見込めるか気がかりだった。
夏の中間報告で作物の生育状況を聞いてはいたが、不安が払拭されることはなかった。それが今、食糧不足を免れることはできそうだとわかった。喜ばしいことだ。
「『なんとか』というレベルではありませんよ。今年は近年のうちでは豊作です」
執政に任じた男——イシリアン公ファラミアが、テーブルの上に積まれた書類を片づけながら涼やかに笑った。
彼が片づけているのは、昨夜までアラゴルンが見ていた地図や資料だ。自分で片づけると言ったが、当てにならないと思ったのか、彼はここへ来てからテーブルに掛かりきりだ。そんな状態でも、問いかけにはきちんとした返事があるのはさすがと言うべきか。
「そうなのか?」
アラゴルンは手許の書類に目を落とした。報告の数値は予想を上回っていたが、豊作と評するレベルではないと思う。しかし、傍らで書類を揃えている侍従長に目を向けると、彼はそのとおりと言うように頷いた。
「これまでは、オークや賊に耕地を荒らされるのが日常になっておりましたから」
ファラミアが補則するように言った。つまり——、
何年もの間、ゴンドールの農夫は冥王に与する勢力からの襲撃を恐れ、おちおち畑も耕していられなかった。それがこの春、冥王が滅んだ。結果、オークによる被害が激減し、収穫量が上がった——ということらしい。
それだけゴンドールは追い詰められていたのだ。アラゴルンはひっそりと息を吐いた。
「……そうか」
「これも陛下と、小さき勇者たちのおかげです」
優秀な臣下はこちらを振り向くことも、手を止めることもなく、きっちりと口を動かす。アラゴルンは苦笑しながら首を振った。
「フロドとサムの働きはあなたの言うとおりだが、わたしのしたことは知れているよ」
「何をおっしゃいます。陛下がいらっしゃらなければ、この都は落ちていました」
「それもローハンの……」
「もちろん、ローハン軍には感謝しております。けれど、主の功績はより強調したいものなんですよ。その気持ちを受け止めていただけませんか」
淡々と書類を片づけながら、すらすらとそんなことを言う相手に、アラゴルンは肩を竦めた。
「その気持ちはありがたいが……、わたしは慣れていなくてね」
短くない放浪の半生で、アラゴルンに向けられた眼差しの大半は“胡散臭い”と言わんばかりのものだった。
一族の者は信頼を寄せてくれていたが、よく言われていたのは「行動はくれぐれも慎重に」だの「食事を疎かにしない」だの……、わたしは子供か、と言いたくなるような説教ばかりだった。
士官していた頃は勝利を賞讃されたが、それとて“流れ者が”という蔑みを含んでいた。それなのに——、
アラゴルンは、資料を片づける若い執政を眺めた。なぜ、こうも無条件に、流れ者を主と認めてくれるのか。彼は目覚めた瞬間から、アラゴルンを「王」と呼んだ。ヌメノールの血の為せる業なのか。エレンディルの末裔というのは、それほど大きな意味があるのか……。
「長い間さすらったおかげで、褒め言葉とは縁遠いんだ」
「これから慣れますよ」
「そんなものかね」
アラゴルンは報告書を侍従長に渡し、ペンを置いた。
「お茶を淹れましょうか」
侍従長が訊く。ホビットたちが滞在していた影響か、仕事が一段落すると、茶を飲むようになっていた。だが——、
「いや、今日はいいよ」
アラゴルンは断った。
「それより、少し横になってもいいかな」
この数日、収穫の報告が集中し、特に忙しかった。時間があるなら、睡眠にあてたい。
「どうぞ」
心得たように侍従長は頷いた。
「では、わたしはこれにて失礼します。控えの間に一人置いておきますから、ご用の際はお申し付けください」
実直な男は慇懃に述べ、書類を束ねて部屋を出ていった。それを追うように、
「わたしも——」
ちょうど書類を片づけ終えたらしいファラミアも身を翻した。書類箱を抱え、そそくさと扉に向かう。その足を止めるように、アラゴルンは呼んだ。
「ファラミア」
「はい」
こちらを振り返りはしたものの、ファラミアはその場に立ち止まったまま、近づいてはこなかった。視線も僅かではあるが、逸れている。それに気づかない振りをして、アラゴルンは言った。
「今晩、夕食を一緒にどうかな」
「その……せっかくですが……」
水色の瞳が揺れ、言葉は困ったように途切れた。
「ああ、もちろん——」
なるべく自然な調子を心がけ、アラゴルンは言葉を続けた。
「予定があるのなら、無理にとは言わない。執政殿が多忙なのは承知している」
「申し訳ありません」
「構わないさ。そのうち時間ができたら、また食事の相手をしてくれ」
「はい。失礼します」
強張った背中が扉の向こうに消えた。それを見送ってから、アラゴルンは倒れ込むように長椅子へ身を預けた。大きく息を吐き出す。
——やはりな……。
声をかけたものの、断られるだろうと思っていた。気づけば、彼に避けられるようになっていた。当初は気のせいかと思っていたが、度重なるうちに故意だと確信するに至った。先程、この部屋に入ってきてから、彼は一度もアラゴルンと目を合わせなかった。
——いったいいつから……。
少なくとも、はじめの頃はこんなことはなかった。論功行賞もセオデン王の葬儀も終え、ゴンドールは復興への道を歩きはじめた。長く戦いが続いた国土は疲弊しており、決して楽観できる状態ではなかったが、冥王という脅威が滅び去った今、人々の顔には明るさが戻ってきていた。
そんな中、人々の心を更に明るくする話がもたらされた。ゴンドールの新しい執政ファラミアと、ローハンの王女エオウィン姫の婚約だ。
二人の婚約はゴンドールだけでなく、ローハンの民にも歓びの声で迎えられ、二国間の友好と新時代への希望の象徴だと称された。
本人たちも幸せそうであり、国を憂いていたローハンの白き姫も、溌溂とした笑顔を取り戻した。不遇が続き、沈んだ表情が多かったと聞くファラミアも、穏やかな笑みが増えた——はずだった。
いや、表面上は穏やかなままだ。だが、その笑みには、いつしか、翳りが差すようになった。何か心配事があるのかと考え、はたと気づいた。その翳りは、彼がアラゴルンを避けはじめて以降、表れるようになった変化だと。
——わたしの方針に不満があるのか……?
共に国政を担っていく右腕に、不満を抱えられていてはうまく進むものも頓挫してしまう。不満に感じていることはないか、意見はないか——折りをみて尋ねてみたが、返事は「何もありません」だった。そのうえ「わたしは陛下にお仕えできたことを喜んでおります」という麗句まで付いた模範解答だった。
しかし、そう口にした男の瞳は、アラゴルンを映してはいなかった。
——何かあるのだ。
でなければ避けるわけがない。
——いったい何が……。
これまで何度も考えたが、答えは出ないままだ。時として型破りと称される、アラゴルンの事の運び方が気に入らないのかと思ったが、その“型破り式”をファラミアが推すことも少なくない。となると、アラゴルンの方針に不満を抱くばかりでもないのだと言える。しかし——、
そうなると、彼の表情の翳りの原因がさっぱりわからなくなる。膝を折ってくれた者の不満を斟酌できないとは、情けない話だ。
自分では思い当たらず、本人に尋ねて駄目なら、周囲の者に訊くという手があるが……、
おいそれと第三者に訊けることではない。執政が王を避けているなどと、そんな話が下手に広まったら、宮廷内に要らぬ波を引き起こしてしまう。諸侯も官吏も復興に向けて足並みを揃えているように見えるが、それぞれ彼らなりの思惑を抱えている。決して一枚岩ではない。
——さて、どうするか……。
これといった案も思い浮かばぬまま、アラゴルンは長椅子にもたれ目を閉じた。
[2]