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静焔[4]
夕方、急ぎの執務を片づけたところで、アラゴルンは侍従を退がらせた。夕食まで少し間がある。アラゴルンは露台へ出た。
暮れなずむ空を眺めながらパイプに火をつける。東へ目を遣れば、空を覆っていた黒い幕はもうない。澄んだ空を眺めていると、中つ国を脅かしていた影は本当に去ったのだと、しみじみとした気持ちが込み上げてくる。
待ち望んだ平和の到来——と言っても、それは今後の自分たちの努力次第だろう。北方の王家の血を引くエレスサール王はゴンドールに王朝を興しましたが、諸侯諸官を束ねるのに難多く、とうとう内乱が起こり、その治世は長く続きませんでした——なんて末路は御免である。
自分の評判はともかく、いたずらに血を流す事態は避けねばならない。影の無い空を取り戻すまでに、ゴンドールの民は大きな犠牲を払っている。これからは安らかな生活を送ってほしい——と、願うだけで叶うならいいが、実現させるには労苦が伴う。
戦禍によって耕地は荒れ、建物は破壊され、かつて栄華を誇った星々の砦は浸水し、見る影もない。問題は山積みだ。手に負えるのか、見通しは決して明るくない。だが……、
アラゴルンはパイプの火を消し、暗い考えを払うように頭を振った。
胡散臭い野伏を王と迎え、支えようとしてくれる人たちがいる。彼らと力を合わせれば、今は積み重なっている問題も解決していける——そう信じよう。
西の空を染める茜色が濃くなるにつれ、東の空には星が輝きはじめた。この時間帯はまだ夏の名残りがある、そう思って眺めていると、背後で訪う声が聞こえた。このところ、アラゴルンを避けている執政の声だった。
彼には執務室の扉なら、勝手に開けて構わないと言ってあるが、まだそれが実行されたことはない。必ず入って良いか確認を取る。律儀なことだ。アラゴルンは苦笑しながら、扉に向かって声をかけた。
やがて部屋から静かな靴音が聞こえてきた。机に何か——恐らく書類箱だろう——を置く音がする。
「何をご覧になってらっしゃるのです?」
「空を……」
アラゴルンは返事をしたものの露台から動かず、そのまま空を眺めていた。急ぎの仕事なら、しっかり者の執政はそう告げるだろう。そうでなければ——、
振り返らないほうがいい。近頃の彼ときたら、本当に目を合わせようとしないのだから。
こうして背を向けていれば、彼は露台に出てきてくれるかもしれない。そうなれば、話す時間がつくれる。話題はなんでもいい。いきなり「最近、気鬱そうだが、どうした」などと切り出さなければ、話相手になってくれるだろう。そう、たとえば……、
影が消えたこの空を、斃れた人たちにこそ見てほしかった——そんな夢見がちなことを言ったら、彼は……呆れるだろうか。笑うだろうか。それとも、不謹慎だと咎めるだろうか。アラゴルンはあれこれ思いを巡らせながら、近づいてくる足音を聞いていた。
「きれいな空ですね」
やや後ろで穏やかな声がした。
「ああ」
アラゴルンは空を見たまま頷いた。
「もう影は見えない」
務めに無関係な言葉を交わしたのは久しぶりの気がした。そんなことをうれしく思っていると——、
「陛下が闇を払ってくださったおかげです」
面映ゆい言葉をかけられた。思わず「それは違う」と彼に振り向き、影が消えたのは自分一人の手柄ではない、あの戦いに係わったすべての者の功績だと、言葉が口を付いて出ていた。
だが、微笑を浮かべた臣下は手強い。臣からの称讃を受け止めるのも主の務めだと、これまでに幾度も聞かされた王の心得が繰り返された。こういうときは目を逸らさない。勝手なものだと苦笑が漏れたが、彼が自分の話に付き合ってくれることはうれしかった。
「けれど、誰の功績かなんてことは、この空を見ていればどうでも良くなるな」
アラゴルンは空に視線を戻した。
「この国の人々は、ずっと影のない空を待ち望んでいたのだろうから」
叶わなかった望みが、疼きとともに去来する。
「できれば、もっと多くの人たちに見てほしかった。たとえば——」
そよぐ風に目を細め、ファラミアを振り返った。
「あなたの兄君やご父君に」
自分は二人を知っている。もっとも、ボロミアはともかく、デネソールと面識があったなんてことは口が裂けても言えない。また、ボロミアの幼少期を知っていることも……。
けれど、自分の人生に少なくない係わりがあった彼らともっとも近しい人物が、今こうして傍らにいる。そのことになんとも言い難い感慨を覚える。懐かしい気持ちも手伝って、アラゴルンはぽつりぽつりと話を続けた。
「——陛下」
すっと間合いを詰めるように、ファラミアが動いた。
「陛下は、わたしをご覧くださっていたのではなかったのですね」
妙に冷えた声が鼓膜を打った。先程まで穏やかな笑みを浮かべていた顔は強張っている。
「ファラミア?」
「誰もかれもが、亡き者の影をわたしに重ねる」
硬い声は明らかに怒りを孕んでいた。
「そういうつもりでは……」
アラゴルンは困惑して口ごもった。亡き人々を偲ぶ話をしたが、影を重ねたつもりはない。
けれど、相手はそう受け取らなかった。ファラミアの唇が酷薄な笑みを形づくり、碧い瞳に冴え冴えと冷たい光、いや……、ほの白い焔が見えた。豹変——という言葉が頭に浮かぶ。
近づいた彼の手がアラゴルンの腕をつかんだ。どいういうつもりなのか、対処に戸惑っていると、腕を強く引かれ、柱に向かって投げ飛ばされた。
「うわっ!」
体勢を立て直す暇もなく肩を押さえられ、アラゴルンは柱に釘付けにされた。
「ファラミア……」
さすがにこれは冗談では済まされない。相手の出方によっては、力づくで事態を打開する必要がある。その覚悟を決め、アラゴルンは相手の目的を訊いた。
「なんの真似だ」
しかし、執政は無言だった。
「答えろ。ファラミア」
再び問いかけたが答えはなかった。だが、彼の片手が動き、アラゴルンの顎を捕らえた。そのまま首を絞めにかかるか、顎を固定したところで殴るのか……次の手を用心していると、彼の顔が間近に迫り、いきなり唇を塞がれた。
「ん……」
瞬間、頭の中が真っ白になり、対処が遅れた。口を閉じようとしたが、ファラミアの舌が入り込んでくるほうが早かった。そのまま歯を下ろせば、彼の舌を噛み切ってしまう恐れがある。アラゴルンは口を閉じるのを諦めた。
口腔内の侵入者は奥に逃れたアラゴルンの舌を絡め取り、引きずり出した。音が立つほどにきつく吸い上げられ、背筋にぞくりとした感覚が走った。否応なく身体が震え、思わずファラミアの腕をつかんでいた。
——だめだ。流されるな。
快感に絡め取られそうになる身を叱咤する。このまま流されて受け入れてしまっては、ファラミアのためにならない。一時の激情に駆られているだけで、彼の本意ではないだろう。
唇が離れた一瞬を逃さず、アラゴルンはわざと膝を崩した。柱を背にずるりと崩れ落ちる身体を、ファラミアが支えようと屈みかけた。そこへ——、
膝を蹴り上げた。
「ぐっ……」
苦鳴を漏らし、ファラミアの身がぐらりと傾く。なんとか踏みとどまろうとするように、彼の手がアラゴルンの腕を痛いほどの強さでつかんだ。だが、すぐにその手から力が抜けていく。
崩れ落ちていく身体を支えながら、アラゴルンはその耳許に詫びの言葉を囁いた。
「すまない」
意識を失ったファラミアを担ぎ上げ、隣室の寝台に運んだ。ブーツを脱がせ、ベルトを外す。コートを脱がしてシャツの襟元を緩め、念のため、膝を喰らわせた鳩尾の辺りを診てみた。
案の定、彼の左脇腹は赤く腫れ、心なしか熱を持っているようだった。
——加減したつもりだが……。
自信はなかった。なにしろ、自分は手加減が下手なのだ。骨に当ててないのはわかっているが、内蔵が衝撃を受けている可能性はある。
——医師を……呼ぶべきか。
アラゴルンにも医術の心得はあるが、あいにく手許には包帯も有用な薬草もない。だが——、
この状態をどう説明する? 鳩尾に腫れがあっては、目眩を起こして倒れたと誤魔化すのは無理だ。とはいえ、まさか、執政が乱心したため、やむを得ず失神させたとも言えない。他言無用を命じても、どこからか話は漏れる。王が執政を気絶させたと——。
その後、さぞ豪華に飾り立てられた噂が流れるだろう。そんなことに翻弄される宮廷など、ぞっとしない。
——もうしばらく様子を見よう。
アラゴルンは医師を呼ぶのを見送り、ファラミアにシーツを被せた。彼が無事、目覚めてくれることを祈って。
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