静焔[7]
腕の中でくずおれた痩躯を、ファラミアはそっと寝椅子に横たえた。黒髪が汗で額に張りつき、ぐったりと意識を失ったエレスサールの姿は、それだけでも艶かしかったが、肩から落ちかかったシャツ一枚に、片方の膝でズボンがたぐまっていては、生々し過ぎて目の毒だった。
いったいどんな勢いで貪っていたのか……。ファラミアは己の所行に苦笑し、主君の頭にクッションをあてがい、あられもないその身をコートで覆った。手早く自分の衣服を整え、王の私室と化した隣室からローブと毛布を持ち出した。改めて主の身繕いを行う。
それを済ませたところで、テーブルの酒杯に手を伸ばした。杯に残っていた酒は温くなっていたが、冷えた水に浸けられた瓶の中身は飲み頃の温度を保っていた。酒肴もまだ残っている。ファラミアは新たな酒を杯に注ぎ、寝椅子の端に腰を下ろした。安らかな寝顔を眺めながら、山羊のチーズをつまみ、杯に口を付けた。
酒杯片手に、傍らで眠る想い人の黒髪を梳く。実に贅沢な時間だ。こんなふうに過ごせる日が来るとは、一年前の自分は予想だにしなかった。あの頃は劣情をどう抑えるか、いかに悟られぬようにするか、そればかりを考えていた。
そう思うと、この時間がいっそう愛おしく、貴重なものに思えてくる。その気持ちのまま、ファラミアは大切な主の頬にそっと手を添えた。
「ん……」
甘い鼻声を漏らし、軽く身じろいだ人がうっすらと目を開けた。ファラミアを惹きつけて止まない、淡い紺青の瞳が現れる。玉座にあっては聡明な光を湛える眼差しも、今はぼんやりとしていた。けれど、その魅力はなんら変わることはない。ファラミアは身を屈め、エレスサールの目許に唇を落とした。
「……独り占めか」
間近で掠れた声が聞こえた。
「ええ」
あなたを——と、胸の内で付け足して頷く。すると、エレスサールは意外そうに目をしばたたいた。
「わたしに分けてくれる気はないのかな?」
青灰色の瞳がテーブルの葡萄酒と酒肴の皿に向く。主君の指摘が何かわかって、ファラミアは苦笑した。
「ございますよ」
空いている杯に葡萄酒を注ぎ、上体を起こしたエレスサールに渡す。彼はひと口飲むと、酒肴の皿に手を伸ばした。その指先が香辛料をまぶした牛のハムをつまみ上げる。濃い色をしたハムはあっという間に薄い唇の奥に消え、そこから代わりのように満足げな吐息が漏れた。この人は本当においしそうに物を食べる。
続いて、エレスサールの手の中で杯が傾き、ローブの襟から伸びる喉がリズムを刻むように動いた。玻璃の杯の中で薄い麦わら色に輝く液体が、見る間に減っていく。葡萄酒のはずがエールのような飲みっぷりだ。カタリとテーブルに置かれたとき、杯は見事に空になっていた。ファラミアは小さく笑み、空いた杯に葡萄酒を注いだ。
「……ああ、ありがとう」
エレスサールは礼を言いながらちらりと振り向いたが、その指は切り分けられたパイを取り上げていた。ペストリーの中身は細かく角切りにされた羊肉と、微塵切りのたまねぎ、じゃが芋、人参。どれも厨房の余り物らしい。いわば賄い食で、普通なら国王の口に入るものではない。それが、くだけた席の酒肴とはいえ、御前に供されるのは、エレスサールが厨房に足を運ぶ普通でない王だからだった。
——以前、厨房に顔を出したとき、食べさせてもらったんだ。
それ以来すっかり気に入ったらしく、こうした席では必ずと言っていいほど頼んでいる。当初、型破りな所望に困惑気味だった料理長も、最近は慣れたようだ。
「すっかり冷めている」
パイをかじったエレスサールは不満げに呟き、意味ありげにこちらへ一瞥をくれた。
「それは失礼を」
ファラミアは苦笑いを浮かべた。主君が不機嫌になるのも無理はない。彼の飲食を遮って、寝椅子に押し倒したのだから。
ファラミアとて酒席を楽しむつもりでいた。だが、彼の食べるさまは強烈な誘惑行為だった。葡萄酒を艶かしい動きで飲み込む喉、ハムをするりと口の奥へ誘う赤い舌、小気味良い音とともにパイ生地を裂く歯と肉汁に濡れた唇——。
気づけばファラミアは手を伸ばしていた。「待て、落ち着け」と連呼する声を無視し、事に及んだ。
——まったく……。
主君と仰ぎ迎えた尊い人に、こんな大胆な振る舞いをするようになるとは思いもしなかった。そして、それが許されていることは、まさに奇跡だ。これ以上、望むものがあるだろうか。
幸せを噛み締めて、舌鼓を打つ主を微笑ましく眺めていると、不意に青灰色の瞳がこちらを向いた。少し心地悪そうな顔で、エレスサールが首を傾げる。
「何笑ってるんだ。人の顔を見て」
「いえ……、思い出していたのですよ。去年の今頃のことを」
そう答えると、エレスサールはああ、と頷いた。
「あの頃のあなたは、わたしを避けてばかりいたな。目も合わせなかった」
彼も当時のことを思い出したのだろう、からかうような表情でファラミアを眺め、くすりと笑った。ファラミアも笑う。
「本当に……。今考えるとおかしいほどに」
あの頃の自分は愚かしい欲を抑えるために、エレスサールと目を合わせず、二人きりになることを避けていた。しかし、そのくだらない努力は些細なことがきっかけで霧散した。エレスサールが自分を見ながら、兄と父のことを気遣った、ただそれだけのことで——。
二人の影のような立場で生きてきた自分にとって、身を焦がすような想いを抱いている相手に、彼らのことを懐かしむような顔で語られるのは予想以上の衝撃だった。主君は死者を悼む意図で口にしただけだというのに。
だが、あの感情の爆発がなかったら、今こんな時を持てていないだろう。そう考えれば、あの“事故”も悪くないと言える。とはいえ、最初からこんなふうに思っていたわけではない。
思いを遂げた後の自分は、それ以前よりも徹底してエレスサールを避けた。一旦受け入れられると知ってしまえば、際限なく求めてしまう。けれど、一方的に欲をぶつける関係が長続きするわけもない。遅からず、修復も不可能な終局を迎える——それを恐れた。
物理的に離れてしまえば、最悪の終わりは避けられる。そう考えてミナス・ティリスを去り、エミン・アルネンにこもっていた。
だが、執政が王都を空け続ければ、国政の場に支障が出ないはずがない。そう時を経ずして、再び白の都に足を踏み入れることになった。そして——、
主君から贈られたのだ。お互いにありのままの姿を映していこうと、臣下の身にあり余る歓びの言葉を。それ以来、無理をせずエレスサールの傍らにいるようになった。今こうしているように。
「陛下」
そっと呼びかけながら、ファラミアはエレスサールに手を伸ばした。男にしては薄い肩を引き寄せながら、こめかみに唇を落とす。首に手をまわし、顔をこちらに向けようとすると——、
「……まだ足りないのか」
いささかうんざりした声が投げかけられた。
「ええ」
つれない言葉にめげず、にっこりと頷いて見せる。
「そうか……」
エレスサールはふうっと息を吐き出し、諦めたように天井を仰いだ。しかし、ファラミアが顔を近づけようとすると、薄い唇の代わりに空になった杯を突きつけられた。
「わたしはこっちが足りないんだ」
ファラミアは苦笑し、テーブルの瓶を手に取った。が、僅かしか残っていなかった。満たされない杯を見たエレスサールが可愛らしいくらいにっこりと笑い、上目遣いでファラミアを窺った。新しいのを取ってきてくれ——という“おねだり”である。ファラミアは肩を竦めて立ち上がった。
「同じ銘柄でよろしいでしょうか」
「ああ」
城内には瓶詰めした酒をストックする部屋が幾つかあり、この棟にも設えられていた。厨房の酒蔵まで足を運ばなくて済むのはありがたいことだ。入り口からの視界を遮っている衝立てをまわる。その際、寝椅子を振り返ると、愛しい主はひらひらと手を振って見送ってくれた。喰えない人である。
——まあ良い。
ファラミアはひっそりと笑った。
——この分はきっちり労っていただこう。
戸口に置かれた燭台を手にし、ファラミアは部屋を出た。
◆◇◆◇◆◇◆
執政が出ていってから、アラゴルンは寝椅子に転がった。クッションを頭に敷き、ずり落ちそうになっていた毛布を引き寄せる。
「……ずいぶん、甘やかしてくれるものだ」
テーブルに置いた空の杯に目を遣って独りごちた。
——思い出していたのですよ。去年の今頃のことを。
「一年過ぎたか……」
その間いったい何度肌を重ねたのか……。
「物好きに過ぎるな……」
その物好きな要求を受け入れてしまっている自分も……。アラゴルンは自嘲気味の笑いをこぼした。
はじめは暴力的な支配欲かと思ったが、肌を重ねて“違う”と直感した。だが、それなら、いったいどんな理由で倍以上年上の、それも同性を押し倒すのか謎である。尋ねてみたところ、先祖のように王を喪うのではないかと、どうしてだか無性に不安を覚える。だから繋ぎ止めておきたい——と、わかったようなわからないような答えが返ってきた。
なぜ、そんな不安をアラゴルンに対して抱くのか、それはファラミア自身にもわからないようだった。ひょっとしたら、近しい者を相次いで亡くした反動なのかもしれない。デネソールもボロミアもこの国の庇護者だった。それで新たに迎えた国主に対し、喪失の恐れを抱くのか……。
——少し無理があるか……。
アラゴルンは軽く首を振り、くだらない思考を払った。
——まあ……理由などどうでもいいか。
右腕に任じた男と関係を持つなど望ましいことではないが、国政に影響は出ていない。この一年、ファラミアが私情に流されて、アラゴルンに甘い処置を取ったことはない。遠慮が無くなってきた分、厳しくなっているぐらいだ。脳裏に執政に叱られたあれこれが蘇ってくる。
——それにしても、慌ただしい一年だったな。
今年はさまざまな事柄から一年が過ぎた年だった。ヘルム峡谷やペレンノールの戦いから一年、モルドールが崩壊して一年、戴冠して……。多少の差はあれ、多忙な日々はこれからも続くのだろう。
——それでいいか。
国の舵取りをする者が暇ではかえって不安だ。忙しいといっても、アラゴルン一人がすべてをこなしているわけではない。負担を分ち受け持ってくれる者がいる。多少、趣味の悪いことをするが……。
——同じ銘柄でよろしいでしょうか。
呆れ気味の苦笑を浮かべ肩を竦めて出ていった姿が、テーブルを照らす火影に浮かんだ。イイ歳をした者のわがままを許容する穏やかな性質。けれど、その奥には……
——誰もかれもが、亡き者の影をわたしに重ねる。
静かに燃える焔がある。一年前、垣間見た白い焔。
——まったく……。
アラゴルンは小さく笑った。
——フーリンの家につながる者は熱い。
だが、それも悪くないと、いつの間にか思っている自分がいる。何より、忌憚のない意見を述べてくれる者は貴重だ。辛口の言葉が多いが、話していると楽しい。これもひとつの幸せの形なのだろう。そして――、
彼が屈託のない笑みを見せてくれている間は、この国は概ね安寧で、アラゴルンの政も及第点ということだ。おもねるつもりはないが、跪きながらも容赦のない評価をしてくれる相手だ。指標のひとつになる。
「ふぁ……」
考えているとあくびが漏れ、まぶたが下がってきた。彼は戻ってきたら、どうするだろう。酒を取ってこいと指図しておきながら、眠りこけている酔っぱらいを見て……。
執政の呆れ顔を思い浮かべながら、アラゴルンは温かな気分で目を閉じた。
END
<[6]
4万打超記念リクエスト「ファラアラで、お互いが意識し始めて初キス初Hするまでの心の葛藤から納得まで」をお送りしました。なんて、納得する前にする事してまんがなって感じですが(^^;)いや、そんなことより、
——いきなり一年とばして締めるのかよ!
というお叱りを受けそうですね(汗)。はい、すみません、いきなり一年後です。
裏事情……というか、表事情かもしれません(苦笑)——がありまして、こういう展開となりました。申し訳ありませんm(_ _)m
——いきなり一年とばして締めるのかよ!
というお叱りを受けそうですね(汗)。はい、すみません、いきなり一年後です。
裏事情……というか、表事情かもしれません(苦笑)——がありまして、こういう展開となりました。申し訳ありませんm(_ _)m